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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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30話 夜間計測

 十一月の最初の金曜日。

 美月は初めて、父の夜間水質検査に同行した。

 閉館後の二十時。来館者が帰り、スタッフが退館し、正面玄関が施錠される。残っているのは父と美月だけだった。佐藤は「今日は任せる」と言って帰った。鍵棚の管理ログに、父の名前と退館予定時刻が記入してある。二十二時。

 展示ホールの照明が落とされた。通路の非常灯だけが足元を照らしている。水槽の光——LUNA照明のプログラムが、二十時三十分を待っている。

「道具は」

「持った」

 父がバックヤードから検査キットを持ってきた。水質測定器、サンプル瓶、pH試験紙、カルシウムイオン濃度を測るための滴定キット。プラスチックのケースに整然と並んでいる。

「やり方、教えるぞ」

「見てたからだいたいわかる」

「だいたいじゃ駄目だ。測定は正確にやる。お前のノートと同じだ。一つでも手順を飛ばしたら、データの信頼性が落ちる」

 美月は頷いた。父が教えるとき、声が少しだけ変わる。飼育員の声。水族館で新人に指導するときの声だろう。美月はこの声を聞くのが好きだった。家の中の父とは違う、仕事の顔が見える。

 父が水槽の側面にある採水口を開けた。小さな蛇口のような装置で、展示水槽から直接水を採取できる。ステンレス製。週に一回佐藤が磨いている。

「手袋をしろ。素手で触るとpHが変わる」

 美月はゴム手袋をはめた。大人用で、指先が余った。父が手袋の口を折り返してくれた。

 サンプル瓶を蛇口の下に当てて、父がバルブを回した。水が細い流れになって瓶に入っていく。

「最初の二秒分は捨てる。配管に溜まった水だ。測りたいのは水槽の中の水だから」

 父が最初の水を床の排水口に流した。それからもう一度バルブを開けて、瓶に水を採った。百ミリリットル。ラインぴったり。

「泡が入ったら捨ててやり直す。泡はDOの数値を狂わせる」

「知ってる。理科の実験で習った」

「理科の実験と現場は違う。教科書の水はきれいだが、水槽の水には生き物が住んでる。バクテリアも、プランクトンも、クラゲの粘液も混ざってる。生きた水だ」

 美月はその言葉を覚えておこうと思った。生きた水。教科書には載っていない言葉だった。

「温度」

 父が温度計を水に浸した。二十三・四度。美月がノートに記入した。

「塩分」

 屈折計を覗く。三十四パーミル。記入。

「pH」

 電極を入れる。八・一。記入。

「溶存酸素量」

 DOメーターの数字が安定するまで三十秒待つ。六・八ミリグラム毎リットル。記入。

「カルシウムイオン」

 父が滴定キットを開いた。サンプル水を専用のセルに入れる。試薬を一滴ずつ加えていく。水の色が変わるまで数える。

「十一滴。基準値どおり」

 美月はノートに書いた。Ca²⁺ 十一滴(基準値内)。

 すべて正常値だった。

「お父さん。これが、夜の水質」

「ああ」

「朝と同じ」

「同じだ。今は」

 今は。その二文字に、父の後悔が入っていた。以前は夜に計っていなかった。だから森川の操作に気づかなかった。もし計っていたら、カルシウムイオン濃度の異常を検出できたはずだった。

「お父さんのせいじゃない」

「俺の仕事だったんだ。水質の管理は」

「夜間の検査は、予算も人員もなかった。佐藤さんに聞いた。前の体制では物理的に無理だったって」

「無理でも、やるべきだった」

 父の声は硬くなかった。責めてもいなかった。ただ、事実を受け止めている声だった。美月は、この声を知っていた。正しいと思うことを言うときの声ではなく、正しくなかったことを認めるときの声。


   *


 二十時三十分。LUNA照明が点灯した。

 紫外線の青紫色が水面を照らす。美月はストップウォッチを押した。いつものルーティン。六十七日目の記録。

 三分。最初の一匹が光った。緑色。GFPの蛍光。予定どおり。

 七分でピーク。予測値との差なし。

 美月はグラフに点を打った。正常範囲のど真ん中。ずれなし。

 父が隣に座った。水槽の前のベンチ。いつもの場所。いつもは美月が一人で座っていた場所。

「きれいだな」

「うん」

「毎日これを見てたのか」

「六十七日間」

「一人で」

「途中から、佐藤さんが一緒にいてくれた。缶コーヒー飲みながら」

「佐藤らしいな」

 父がポケットから何かを出した。缶コーヒーではなかった。小さな紙の箱。中から、ガラスの小瓶が出てきた。中に液体が入っている。薄い青色。

「これは」

「セレンテラジン溶液。Ca²⁺で発光する試薬だ。研究用の余り」

「何に使うの」

「見せたいものがある」

 父が小瓶の蓋を開けて、採水したサンプル瓶の水を一滴だけ垂らした。

 何も起きなかった。

「光らないでしょ」

「……うん」

「カルシウムイオン濃度が正常だから、セレンテラジンは反応しない。これが正常な水だ」

 父がもう一つのサンプル瓶を取り出した。ラベルに「保存:事件当日採取」と書いてある。

「事件の朝に採水した水を、冷凍保存しておいた。解凍してある」

 美月の目が開いた。

「それ、証拠品じゃ——」

「警察に提出した分とは別だ。自分用に予備を取っておいた。飼育員の習性だな。何でもサンプルを残す」

 父がセレンテラジン溶液を、事件当日の水に一滴垂らした。

 光った。

 小瓶の中で、小さな青い光が灯った。一瞬。微かに。すぐに消えた。でも、確かに光った。

「これが、あの夜の水だ」

 美月は小瓶を見つめた。青い光の残像が目に焼きついていた。

「カルシウムイオン濃度が高い。森川さんが配管から水質を変えた後の水だ。この水の中でクラゲが泳いでいたから、照明がなくても光った」

「……あの夜の光は、この水だったんだ」

「ああ。クラゲは正直に反応しただけだ。水が変われば光る。変わらなければ光らない」

 父が二つの小瓶を並べた。光らない瓶と、一瞬だけ光った瓶。正常な水と、嘘を混ぜた水。

 暗い展示ホールの中で、二つの瓶がベンチの上に並んでいる。どちらも透明な水に見える。目で見ただけでは区別がつかない。でも、セレンテラジンは区別した。化学反応は嘘をつかない。

「お前がノートに書いてた『もう一つの光』は、この水から来てたんだ。最初から」

 美月は目を閉じた。

 停電の夜。暗闇の中で光ったクラゲ。あの夜、美月はノートを書き始めた。光る理由が知りたかった。六十七日かけて、ここまで来た。

 目を開けた。水槽のクラゲが、LUNA照明の中で緑色に光っている。正常な光。正常な水。正常な時間。

「お父さん」

「ん」

「夜間の検査、私もやっていい?」

「月に二回、金曜日。二十一時開始。遅くなるから、翌日は学校休むなよ」

「休まない」

「嘘つけ」

「嘘じゃない。データに穴が開くのが嫌だから」

 父が笑った。声を出して笑った。事件の前と同じ笑い方だった。

 帰り支度をして、通用口から出た。十一月の夜風が冷たかった。自転車に乗る前に、美月は空を見上げた。星が出ていた。海沿いの道は街灯が少ないから、星がよく見える。

 星はクラゲの光とは違う。何億年も前の光が今届いている。クラゲの光は今の光だ。今の水に、今のイオンが反応して、今光る。過去の光と今の光。どちらも本物だ。

 ペダルを漕いだ。父が隣を走っている。車道側。いつもの位置。いつもの二台。

 十一月の夜は、潮の匂いが少し薄い。でも、確かにそこにある。見えなくても、光っていなくても、そこにあるものがある。クラゲがそうだ。暗い水の中で、光る準備をしながら、静かに待っている。

 美月もそうだ。記録する準備をしながら、次の金曜日を待っている。

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