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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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29話 健太の報告書

 美月の発表のあと、吉田先生が言った。

「もう一人、関連する発表があります。藤井くん」

 健太が立ち上がった。手に原稿用紙を持っていた。四百字詰め。三枚。

 美月は知らなかった。健太が何か書いていたことを。

「え、何それ」

「うるさい。聞いてろ」

 健太が教壇の横に立った。スケッチブックもグラフもない。原稿用紙だけ。しかも半分くらい空白だった。

「えー、これは自由研究じゃなくて、作文です。タイトルは『クラゲは見てないけど光ったらしい』」

 教室が少し笑った。健太は笑われてもまったく気にしない顔をしていた。

「俺はこの夏、美月の自由研究を手伝った。手伝ったっていうか、ほとんど外で待ってただけなんだけど」

 健太が原稿用紙に目を落とした。声を少し落として、読み始めた。


   *


「美月のオヤジが逮捕されたのは、夏休みの終わりだった。俺は最初、よくわからなかった。テレビのニュースみたいなことが、知り合いに起きるっていう実感がなかった。

 美月は学校に来た。始業式の日、教室に入ったとき、みんな黙った。俺は黙らなかった。黙る理由がなかったからだ。美月のオヤジは水族館でクラゲの世話をしてる人で、俺はそのオヤジがクラゲに向かって『今日は調子いいな』って話しかけてるのを聞いたことがある。そんなオヤジが人を殴るわけがない。

 だから、昼休みに美月の隣に座った。弁当を食べた。美月の弁当は冷凍コロッケで、俺のは海老フライだった。俺の方がうまそうだったけど、美月は何も言わなかった。いつもなら『それちょうだい』って言うのに」


 美月は頬が熱くなった。言ったことあったっけ。あったかもしれない。


「美月が張り込みをするって言ったとき、正直、怖かった。夜の水族館の裏で、誰が来るかわからない場所でじっとしてるなんて、映画の中の話だと思ってた。でも美月は本気だった。本気じゃないときの美月は知らないけど。あいつはいつも本気だ。

 張り込みの夜、俺は植え込みの陰にしゃがんでた。黒いパーカーを着ていった。『夜の張り込みはこうだろ』と思ったから。美月には『目立つからやめて』って言われたけど、やめなかった。

 二十時二十分くらいに、スーツの人が車で出ていった。左に曲がった。俺はメッセージを打った。二十時四十分くらいに、作業着の人が建物の横のドアから出てきた。台車を押してた。暗くて顔は見えなかった。

 追おうと思った。でも体が動かなかった。足が、地面に貼りついたみたいになった。怖かったから。夜の暗い場所で知らない大人が動いているのを見て、テレビとは全然違うと思った。テレビの張り込みは音楽が流れるけど、本物は虫の声しかしない」


 教室が静かだった。笑いはなかった。


「俺は美月にメッセージを送った。『追ってない。怖かったから動けなかった。正直に言う』って。美月は『追わないで。隠れてて』って返してきた。

 追わなくてよかったのか、追えなかっただけなのか、今でもわからない。でも、あのとき正直に『怖かった』って言えたのは、よかったと思う。嘘をついたら、美月のノートに書かれるかもしれないし」


 教室が少し笑った。美月は笑わなかった。笑いたかったけど、目が熱くなっていた。


「二回目の張り込みの前に、母ちゃんにバレた。怒られた。泣かれた。『あの子のことは気の毒だけど、あんたが関わることじゃない』と言われた。母ちゃんは正しかった。正しかったけど、俺は行った。

 二回目の張り込みの夜、俺は同じ植え込みにしゃがんでた。今度はカメラを構えてた。美月が昼休みに設定してくれた。感度を上げてフラッシュを切る。俺はそういうの得意だ。

 搬入口から人が出てきた。台車を押してた。暗かったけど、今度はカメラで撮った。三枚。手が震えてたけど、撮った。あとで見たらブレてた。でも、人影は写ってた。

 美月はその夜、中で森川って人に見つかった。俺は外にいたから、何が起きたかは知らない。あとで美月に聞いた。美月は『佐藤さんが来てくれた』と言った。佐藤さんっていうのは、美月のオヤジの同僚で、事件の最初からずっと美月の味方だった人だ。俺は会ったことないけど、缶コーヒーが好きらしい。

 なんで行ったのか、あのときはうまく言えなかった。今は少しだけ言える。

 美月のオヤジが水槽に向かって独り言を言ってるのを、俺は知ってる。知ってるのに何もしなかったら、知らなかったのと同じだ。知ってることには責任がある。少なくとも、俺はそう思う」


 健太が原稿用紙から顔を上げた。教室を見回した。


「美月の自由研究は六十日分のデータだ。俺のは、張り込み二回分の報告書だ。たいしたことは書いてない。植え込みにしゃがんで、メッセージを打って、怖くて動けなかった。それだけだ。

 でも、美月のデータに、俺の報告が一行加わった。外から見た人影の記録。たった一行だけど、その一行がなかったら、美月のオヤジは——たぶん、もう少し時間がかかった。

 俺がやったことは、小さい。見てただけだ。でも、見てたことは事実だ。事実は事実だ。美月がそう言ってた。

 以上です」


   *


 健太が席に戻った。教室がしばらく静かだった。

 吉田先生が「ありがとう、藤井くん」と言った。それだけだった。点数をつけるような話ではなかった。先生は眼鏡の奥で少しだけ目を細めていた。何かを堪えているような顔だった。

 休み時間に入って、何人かのクラスメイトが健太に声をかけていた。「すげえな」「怖くなかったのかよ」「本当に張り込みしたの」。健太は「まあな」とか「怖かったっつったろ」とか、いつもの調子で返していた。

 美月は健太の隣に座っていた。何か言おうとした。言葉が出なかった。

「おい、泣くなよ」

「泣いてない」

「目、赤いぞ」

「花粉症」

「十月に花粉はねえよ」

 美月は鼻をすすって、前を向いた。黒板の上の時計。五時間目の終わりまで、あと五分。窓の外から、校庭で体育をしているクラスの声が聞こえる。日常の音。

 健太が小声で言った。

「母ちゃんに読まされてから持ってきたんだ。直せって言われたところが三箇所あった」

「どこ」

「最初は『美月の冷凍コロッケはまずそうだった』って書いてた。母ちゃんに消された」

「消して正解」

「あと、『美月は友達が少ない』っていうのも消された」

「……事実だけど」

「事実でも書くなって母ちゃんが言った」

「お母さんが正しい」

「三つ目は、最後の一文。最初は『美月は俺の友達だ』って書いてた。母ちゃんが『それは読めばわかるから消しなさい』って」

 美月は窓の外を見た。秋の空。高い雲。

「お母さん、すごく国語できる人?」

「パートで新聞配達してるだけだよ」

「それ関係ないでしょ」

「関係ないな」

 チャイムが鳴った。五時間目が終わった。教室がいつもの喧騒に戻った。椅子を引く音、話し声、笑い声。美月はノートを——スケッチブックを閉じて、リュックにしまった。

 健太の原稿用紙が、机の上に置きっぱなしになっていた。四百字詰め三枚。半分空白。でも、書いてある部分は、一文字も無駄がなかった。

 美月はそっと手を伸ばして、原稿用紙を揃えた。折り目をつけないように丁寧に重ねて、健太の机の真ん中に置いた。

「これ、もらっていい?」

「やだよ。恥ずかしいだろ」

「コピーは」

「……一枚だけな」

 美月はリュックからスケッチブックを出して、健太の原稿用紙を挟んだ。六十日分の科学データと、三枚の作文。研究と報告書。二人分の夏が、一冊のスケッチブックの中に揃った。

「健太」

「なんだよ」

「お母さんにお礼言っておいて。おにぎり三つのことと、原稿直してくれたことと、健太を止めなかったこと」

「三つ目は怒られてたんだけど」

「怒りながら止めなかったでしょ。それが答えだよ」

 健太が窓の外を見た。何か言おうとして、やめて、代わりに机を指で叩いた。

「放課後、帰り道にコンビニ寄っていい? アイス食いたい」

「いいよ。おごらないけど」

「知ってる」

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