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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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28話 自由研究

 十月の第三週。自由研究の発表会があった。

 夏休みの宿題としては遅すぎる時期だったが、美月の担任の吉田先生は待ってくれていた。「白石さんの研究は、事情があって完成が遅れています。準備ができたら発表してもらいます」と、九月の最初にクラスに説明していた。事情が何かは言わなかった。クラスの全員が知っていたが、先生は言わなかった。その配慮に、美月は感謝していた。

 発表の前夜、美月は自分の部屋でスケッチブックを最初から最後まで見返した。十二ページ。グラフが四枚。写真が三枚。説明文が五ページ。六十日間の記録を十二ページに圧縮するのは、書くよりも難しかった。何を残して何を落とすか。すべてのデータに意味があるのに、全部は見せられない。

 父に見せたら、「わかりやすい」と言った。本多弁護士に見せたら、「裁判の証拠資料より読みやすい」と笑った。佐藤に見せたら、「字がでかくていい」と言った。全員が違うことを褒めた。

 発表は五時間目の理科の時間だった。

 美月は教壇の横に立った。手にはスケッチブック。本多弁護士の助言で、ノートの原本は使えない。代わりに、データとグラフをスケッチブックに清書して、発表用の資料を作った。健太が休みの日に手伝ってくれた。「字がでかい方が後ろの席からも見える」と言って、グラフのタイトルを太いマジックで書いてくれた。

 教室は静かだった。あの日——始業式の日の静けさとは違う静けさだった。あのときは、美月を避ける沈黙だった。今は、待っている沈黙だった。

「自由研究のテーマは、『オワンクラゲの発光パターンの観察』です」

 美月はスケッチブックの一枚目をめくった。水槽の写真。スマートフォンで撮ったもの。LUNA照明が点灯している時間帯で、クラゲが緑色に光っている。

「七月一日から、水族館で毎日クラゲの発光時刻を記録しました。観察期間は六十日間です」

 クラスがざわめいた。六十日。夏休みは四十日しかない。六十日間ということは、夏休みが終わっても続けていたということだ。

「観察の方法は、目視とストップウォッチによる計測です。毎日同じ時間に同じ水槽を観察し、LUNA照明が点灯してから最初の個体が発光するまでの時間、全体がピークに達するまでの時間を記録しました」

 スケッチブックをめくる。二枚目。折れ線グラフ。六十日分のデータ点が並んでいる。横軸が日付、縦軸がピーク時刻。

「結果として、発光パターンには二種類のずれがあることがわかりました」

 美月はグラフの赤い点と黒い点を指さした。健太が色分けしてくれたもの。

「一つ目は、照明の手動操作によるずれ。これは照明のタイミングが変われば発光も変わるという、単純な因果関係です。二つ目は、照明とは無関係な、水質の変化によるずれ。カルシウムイオン濃度が変わると、照明が同じでも発光パターンが変わります」

 教室が静かだった。理科の授業で習っていない単語が並んでいるのに、誰も話していなかった。先生も口を挟まなかった。

「オワンクラゲの発光には、二つの経路があります。一つはGFP——緑色蛍光タンパク質が紫外線で励起される経路。もう一つは、エクオリンというタンパク質がカルシウムイオンに反応して青い光を出す経路です。この二つの経路があるから、照明が変わっても水が変わっても、クラゲの光はそれに応答します」

 美月はスケッチブックの最後のページを開いた。暗闇の中で青く光るクラゲの写真。佐藤が撮った動画から切り出したもの。

「これは、照明を完全に消した状態で撮影したものです。紫外線なしで、クラゲが自分から光っています。水中のカルシウムイオン濃度が通常より高かったためです」

 教室の前の方に座っている女子が、小さな声で「きれい」と言った。隣の席の女子——始業式の日に鞄を寄せた子——が頷いた。

 美月はスケッチブックを閉じた。

「この研究を通じて、オワンクラゲの発光が単一のメカニズムではなく、紫外線励起とカルシウムイオン反応という二つの独立した経路で制御されていることがわかりました。環境条件の違いによって、どちらの経路が優勢になるかが変わります。これは、一つの現象に複数の原因がある場合、観察だけでは区別できないことを意味します。区別するためには、条件を変えた比較実験が必要です」

 理科の教科書に書いてありそうなまとめだった。先生が頷いている。でも、美月はここで終わりたくなかった。

「自由研究で学んだことは——」

 美月は一瞬だけ言葉を止めた。準備していた文章があった。「生物の発光メカニズムには複数の経路があり、環境変化に対する応答が異なることがわかりました」。科学的に正確な結論。これを言えば、発表は終わる。

 でも、美月は違う言葉を選んだ。

「クラゲは嘘をつけません。環境が変われば光が変わります。変わったことは記録に残ります。記録を続ければ、何が変わったのかがわかります」

 教室を見た。三十人の顔が美月を見ていた。

「自由研究で学んだことは、記録を続けることの意味です。一日分のデータでは何もわかりません。でも、六十日分のデータが集まると、パターンが見えます。パターンが見えると、原因がわかります。原因がわかると——」

 美月は言葉を探した。

「——本当のことが、見えてきます」

 教室が静かだった。三秒。五秒。

 吉田先生が言った。

「白石さん。質問してもいいですか」

「はい」

「六十日間、毎日記録を続けるのは大変だったでしょう。途中でやめようと思ったことはありませんでしたか」

 美月は考えた。正直に答えた。

「やめようと思ったことはないです。でも、書けなかった日はありました。水族館に入れなかった日が何日かあって、その日はノートが空白です」

「空白の日は、どうしましたか」

「空白のまま残しました。書けなかったことも事実だから」

 先生が頷いた。何か言おうとして、やめた。代わりに、教室の方を向いた。

「質問がある人」

 一人だけ手が上がった。健太ではなかった。隣の席の女子だった。鞄を寄せた子。

「白石さん。そのクラゲ、見に行ける?」

 美月は少し驚いた。この子は、始業式の日に鞄を寄せた子だ。廊下で「あの子のお父さんでしょ」と言っていた声の一人だったかもしれない。でも、今はクラゲを見たいと言っている。

「……水族館に来れば、いつでも」

「今度の日曜、行っていい?」

「いいよ。八時半に行けば、光るところが見れる」

「夜じゃん」

「夜間開館の日があるの。第三日曜日」

「え、夜の水族館ってどんな感じ?」

「暗い。水の音しかしない。でも、そこでクラゲが光ると、すごくきれいだよ」

 女の子がメモを取った。日付と時間を書いている。美月はそれを見て、少しだけ笑った。メモを取る人は信用できる、と美月は思った。

 先生が「他に質問は」と聞いた。もう一人、男子が手を挙げた。

「六十日って、めんどくさくなかった?」

 正直な質問だった。教室が少し笑った。美月も笑った。

「めんどくさかった日もあった。でも、めんどくさいからやめるっていうのは、データに穴が開くってことだから。穴が開いたら、パターンが見えなくなる。パターンが見えなくなったら、全部無駄になる。それが嫌だった」

「嫌だから続けたってこと?」

「うん。嫌だから」

 男子が「すげえな」と呟いた。褒めているのか呆れているのか、どちらともつかない声だった。


   *


 放課後。健太と帰った。

「よかったじゃん」

「何が」

「発表。ちゃんとしてた」

「ちゃんとしてないと意味ないから」

「最後のやつ、準備してた文章と違っただろ」

「……バレた?」

「お前が言葉に詰まるの、初めて見た。いつもすらすら喋るのに」

 美月は黙った。準備していた科学的な結論を捨てて、自分の言葉を選んだ。それが正しかったのかどうかはわからない。でも、あの場で「GFPの励起経路の多様性が——」と言っても、誰の心にも届かなかっただろう。

「健太」

「ん」

「ありがとう。グラフのタイトル、太いマジックで書いてくれたの、後ろの席からも見えてた」

「だろ。俺の字はでかいからな」

「でかいだけじゃなくて、読みやすかった」

 健太が一瞬だけ黙って、それから「当然だろ」と言った。照れているのが声でわかった。

 帰り道の空が高かった。秋の空。夏の入道雲はもうなくて、薄い雲が西の方に流れていた。水族館がある方向。今夜も、クラゲは光る。美月がいなくても。記録しなくても。

 でも、記録する。明日も。明後日も。

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