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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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27話 押さない練習

 十月の第二週。水族館が本格的に再開した。

 臨時休館と限定営業を合わせて、二ヶ月近くが経っていた。その間に変わったことがいくつかある。

 まず、副館長のポストが空席になった。大野は後任を置かず、自分が兼務することにした。「しばらくは少人数でやる。余計な階層は要らない」。大野が初めて見せた、妥協ではない判断だった。

 次に、LUNA照明の運用が全面的に見直された。手動操作は廃止。すべて自動プログラムに戻された。操作ログはリアルタイムで事務室のモニターに表示され、誰でも確認できるようになった。父が本多弁護士に相談して導入した仕組みだった。

「透明にすればいいんです」と父は言った。「記録が誰にでも見える状態にしておけば、嘘は混ぜにくくなる」

 ポンプ室の鍵は、管理方法が変わった。以前は館長・副館長・飼育課長の三人が個別に保持していたが、今は事務室の鍵棚に保管され、持ち出し記録をつけることになった。佐藤がその記録簿を作った。表紙に「ポンプ室管理ログ」と大きく書いてある。佐藤の字は相変わらず雑だった。

 水質検査は、一日三回に増えた。朝、午後、そして夜間。夜間の検査は閉館後の二十一時に行う。父の提案だった。

「夜に何が起きているかを見ていなかった。それが俺の落ち度だ」

 美月はその言葉を聞いて、あの日の廊下を想像した。バックヤードの扉の前で父が一瞬だけ夜間計測を考えて、「余計なことは考えるな」とやめた瞬間。あのとき始めていたら、事件は防げたかもしれない。父はそのことを、ずっと考えていたのだろう。


   *


 再開初日の土曜日。

 来館者は百二十三人だった。事件前の平均が百八十人だから、七割弱。でも、ゼロから始めたことを思えば、十分だった。

 入口に新しいパネルが立っていた。佐藤が作ったものだ。「当館の運営体制について」というタイトルで、事件の概要と再発防止策が書かれている。森川の名前は出していない。裁判が終わるまでは伏せる方針だと、大野が決めた。

 パネルの前で足を止める来館者もいた。じっと読んでいる人。ちらりと見て通り過ぎる人。気づかない人。反応はさまざまだったが、美月は全部見ていた。見ていただけで、何も思わなかった。事実は事実だ。読む人がいて、読まない人がいる。それだけのことだ。

 美月は展示ホールのベンチにいた。いつもの場所。ただし今日は、ノートではなくスケッチブックを広げていた。本多弁護士の助言で、ノートの原本は証拠として保全することになり、日常の記録は新しいノートに移行していた。スケッチブックは健太がくれたものだ。「ノートより紙がでかいから、グラフが描きやすいだろ」と言って。

 十四時。家族連れが第三水槽の前に来た。母親と、小学校低学年くらいの女の子と、もっと小さな男の子。

 女の子が水槽に顔を近づけた。

「お母さん、光ってない」

「まだ時間が早いからかな」

「いつ光るの?」

 父が通りかかった。作業着姿。水槽の点検の途中だったらしい。手にバケツを持っていた。

「八時半ですよ」と父が言った。

 女の子が振り返った。

「八時半? もう帰ってるよ」

「そうだね。でも、クラゲはその時間にならないと光らないんだ」

「なんで?」

「紫外線を当てると、クラゲの体の中にある特別なタンパク質が反応して光る。紫外線のライトが点くのが八時半なんだ」

 女の子は水槽を見上げた。透明な傘がゆっくりと拍動している。

「今は光らないの?」

「今は光らない。でも、光る準備はしてる。クラゲの体の中で、タンパク質がずっと待ってるんだ。紫外線が来るのを」

「待ってるだけ?」

「待ってるだけ」

 父がバケツを置いて、しゃがんだ。女の子と目線を合わせた。

「クラゲは自分から光ろうとしない。環境が整ったときに、自然に光る。押さない。待つ。待てば、光は自分で来ます」

 女の子は真剣な顔でクラゲを見ていた。弟が「ねえ、次のとこ行こう」と袖を引っ張っても、しばらく動かなかった。

 母親が父に頭を下げて、子どもたちを連れて次の水槽に移っていった。

 美月はベンチからその一連を見ていた。父がバケツを持ち上げて、バックヤードに向かう。通りすがりに美月と目が合った。

「何見てる」

「お父さんの解説。上手くなった」

「うるさい」

「前はもっと専門用語が多かった。GFPとかエクオリンとか」

「子どもにGFPは言わないだろ」

「私には言ったけど」

「お前は別だ」

 父がバックヤードに消えていった。美月はスケッチブックに今の会話を書き留めた。記録ではない。ただ、書いておきたかった。


   *


 二十時三十分。閉館後。

 LUNA照明が自動で点灯した。紫外線の青紫色が水面を照らす。いつものプログラム。いつもの時刻。

 美月はストップウォッチを押した。新しいノートの六十日目。

 三分。最初の一匹が光った。

 七分でピーク。

 予測値との差——なし。

 バックヤードの音——なし。

 備考欄——特になし。

 美月はペンを置いた。

 「特になし」。事件の前、三十五日目にも同じことを書いた。あのときは物足りなく感じた。異常がないことが退屈だった。

 今は違った。

 「特になし」は、世界が正しく動いている証拠だった。照明が予定どおりに点き、クラゲが予定どおりに光り、水質が正常で、誰も嘘をついていない。その全部が揃ったときに、備考欄に「特になし」と書ける。

 それがどれだけ大切なことか、美月は五十五日かけて学んだ。

 水槽の光が少しずつ弱まっていく。タイマーで紫外線ライトが消えるまで、あと十分ほど。その十分の間に、光は最大値から徐々に下がり、最後は消える。毎日同じカーブを描く。同じであること。それが、信頼の形だ。

 押さない。待つ。待てば、光は自分で来る。

 父の言葉は、クラゲのことだけを言っていたのではなかった。美月にも、佐藤にも、大野にも、この水族館に来る子どもたちにも、同じことが言えた。急がない。操作しない。環境を整えて、あとは待つ。

 美月はノートを閉じて、リュックにしまった。帰り支度をしていると、バックヤードから父が出てきた。作業着を脱いで、ポロシャツに着替えている。

「帰るか」

「うん」

 いつもの言葉。いつもの声。

 二人で駐輪場に向かった。自転車が二台、並んでいる。海沿いの道を走れば、十分でアパートに着く。

 今夜の夕食は何にしようか。冷蔵庫に豚肉があったはず。生姜焼きにしよう。父の作る生姜焼きは、少し味が濃い。疲れているときほど濃くなる。今日は再開初日だから、きっと濃い。

 でも、それでいい。濃い味の夕食を、一緒に食べる。それが今の日常だった。

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