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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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26話 森川の手紙

 十月に入って、水族館に手紙が届いた。

 差出人は森川だった。宛名は父——白石雄一。拘置所からの封書で、検閲済みのスタンプが押されていた。

 父はその手紙を、事務室で一人で読んだ。美月が展示ホールでノートを書いている間に。

 夕方、帰り支度をしていると、父がベンチの隣に座った。作業着のまま。水槽の点検を終えた後の、少し湿った匂い。

「森川さんから手紙が来た」

「知ってる。佐藤さんが言ってた」

「読むか」

 美月は少し迷った。森川の言葉を読みたい気持ちと、読みたくない気持ちが半分ずつあった。

「お父さんが読んでいいと思うなら」

 父がポケットから封筒を出した。中身はA4の便箋が三枚。森川の字は美月の予想よりずっと丁寧だった。経理の人間らしい、整った楷書。一文字も乱れていなかった。

 父が全文を読み上げるのではなく、いくつかの部分を選んで、声に出した。


   *


「『白石くん。こう呼ぶのは最後になると思います。正式な手続きの中では、あなたは被害者で、私は加害者です。呼び方も変わります。その前に、一度だけ、同僚として手紙を書かせてください』」

 父の声は淡々としていた。感情を抑えているのではなく、森川の文体がそうさせているようだった。理路整然とした文章。あの会議の夜に二階から降りてきた声と同じ調子。

「『あなたを利用したことについて、謝罪します。ただし、弁解はしません。弁解をすれば、謝罪が嘘になるからです。私は十八ヶ月間、あなたの正直さの隣で嘘をつき続けました。あなたが毎朝水質を検査している間に、私は夜にその水を変えていました。あなたの誠実さが、私の不正を見えにくくしていました。それを知った上で続けました』」

 美月は水槽を見ていた。クラゲが泳いでいる。父の声を聞きながら、クラゲの拍動を数えていた。

「『一つだけ、伝えておきたいことがあります。私には息子がいます。翔太といいます。今年十五歳になりました。離婚後は元妻が育てています。翔太には七年間、まともに会えていません。養育費も——恥ずかしい話ですが、何度も遅れました。遅れるたびに元妻から電話が来ました。翔太の声は聞けませんでした。電話をかけてくるのはいつも元妻だけでした。そのたびに、自分は父親として失格だと思いました』」

 美月は息を吸った。七年間。美月は母がいなくなってから三年だ。森川の息子は、七年間父親に会えていない。

 父が続けた。

 父が一瞬だけ間を置いた。便箋を持つ手が微かに震えていた。

「『あなたの娘さんが水族館に来て、毎日ノートを書いている姿を見るたびに、翔太のことを考えました。翔太も五歳のとき、水族館が大好きでした。閉館の日に泣きました。私は二度と子どもを泣かせないと思いました。結果として、あなたの娘さんを泣かせることになりました』」

 美月は泣いていなかった。泣いていないことが、少しだけ悔しかった。森川に泣かされたくはなかった。でも、この手紙には怒りで応えるべきなのか、悲しみで応えるべきなのか、わからなかった。

 父が便箋をめくった。二枚目。

「『受付のカウンターの裏に落ちていたノートのことを、覚えていますか。千葉の水族館が閉館した日に、来館者の子どもが忘れていったノートです。中にクラゲの絵が描いてあって、「またくるね」と書いてありました。私はあのノートを十年間、捨てられませんでした。あの子は結局、来れませんでした。水族館がなくなったからです。私がやったことのすべては、あのノートから始まりました。水族館を守れば、子どもたちが来れる。来れる場所を守るためなら、何をしてもいいと思った。それが間違いでした。方法を間違えたら、場所も壊れる。今はそれがわかります』」

 父が便箋を膝の上に置いた。残りの部分は、声に出さなかった。

「あとは——俺への個人的なことだ。美月に聞かせる内容じゃない」

「いい。十分わかった」

「何がわかった」

「森川さんにもノートがあったってこと」

 父が美月を見た。

「ノート?」

「『またくるね』のノート。あの子のノートが、森川さんを動かした。私のノートが、お父さんを助けた。ノートは同じなのに、結果が違った」

 父は何も言わなかった。しばらく水槽を見ていた。

「お父さん。返事書くの」

「書かない」

「なんで」

「書くことがない。あの人が書いたことは全部本当だろう。本当のことに対して、こっちも本当のことを返す必要はない。黙っているのが、一番正直な返事だ」

 美月はその言葉を聞いて、父が森川を許しているのか許していないのか、やはりわからなかった。でも、「黙っているのが一番正直」という言葉には、父らしさが全部入っていた。


   *


 帰り道。自転車。海沿いの道。十月の風が冷たくなり始めていた。

「お父さん」

「ん」

「森川さんの息子さん、水族館に来たいかな」

 父のペダルが一瞬だけ緩んだ。

「……どうだろうな」

「来たかったら、来ていいと思う」

「お前がそう思うなら、そうだろう」

「お父さんは」

「俺は——考える。もう少し」

 美月はそれ以上聞かなかった。父が「考える」と言うときは、本当に考えている。答えが出るまで待てばいい。

 坂を越えた。アパートの明かりが見えた。階段を上がるとき、父が後ろから言った。

「美月」

「ん」

「あの手紙の中に、一箇所だけ、俺のことじゃなくてお前のことが書いてあった」

「何て」

「『あなたの娘さんは、私のノートよりもずっと正直なノートを持っていた。私のノートは過去に縛られていましたが、あの子のノートは未来に向かっていました。同じノートなのに。その違いが何なのか、ここで考えています』」

 美月は階段の途中で足を止めた。

「……森川さん、私のノートのこと、そんなふうに見てたんだ」

「ノートを借りたとき、本当に読んだんだろうな。中身を確認するためだけじゃなくて」

 美月は何も言わなかった。森川がノートを返したとき、特定のページに折り跡がついていた。あの折り跡は、証拠を確認するためだけのものではなかったのかもしれない。

 考えすぎだろうか。考えすぎかもしれない。でも、考えることは記録することと同じくらい大事だと、美月は最近思い始めていた。

 今夜は卵焼きにしよう。父が好きな甘い卵焼き。

 事件の前の夜、「たぶんチャーハンだ」と思った夜から、二ヶ月が経っていた。あの夜が最後の平穏だったと思っていたが、今はそう思わない。平穏は終わったのではなく、形を変えて戻ってきた。少しだけ重くなって。少しだけ深くなって。でも確かに、ここにある。

 駐輪場に自転車を停めた。鍵をかける音が二つ重なった。

 いつもの音だった。二ヶ月前と同じ音。でも、同じ音が聞こえることのありがたさを、今の美月は知っていた。

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