25話 加害者と被害者のあいだ
山田の妻が、翌日また来た。
美月は放課後、水族館に来ていた。いつものベンチでノートを開いていると、佐藤が展示ホールに顔を出した。
「美月ちゃん。昨日の人が来てる。話がしたいって」
「私に?」
「お前のオヤジにも声をかけたが、主任は『美月が決めればいい』って言ってた」
美月はノートを閉じた。少し考えて、頷いた。
*
休憩室の丸テーブル。昨日と同じ場所。山田の妻——名前は山田真紀といった——が座っていた。お茶が二つ置いてある。佐藤が淹れたらしい。大野のよりは濃かった。
「昨日は突然来てしまって、すみません」
「いえ」
「夫のことを——少しだけ、話してもいいですか」
美月は頷いた。ノートは出さなかった。この会話は記録するものではないと思った。
「夫は元々、まともな仕事をしていました。海洋生物の卸売。小さな会社でしたが、水族館や研究機関に生体を納入していました。取引先の一つが、森川さんがいた千葉の水族館でした」
「森川さんとは、その頃からの付き合いですか」
「はい。閉館になるまでは普通の取引でした。閉館の後、夫の会社も取引先を失って——経営が厳しくなって。それで、正規のルートでは扱えない個体に手を出すようになったんです」
正規のルートでは扱えない個体。密輸品。美月はその言葉を頭の中で翻訳した。
「夫が森川さんに話を持ちかけたんです。森川さんが断ったのも本当です。何度も断られました。でも——夫はしつこい人間で。森川さんが経済的に苦しいことを知っていて、そこを突いた」
山田の妻が目を伏せた。テーブルの上のお茶に手を伸ばしかけて、やめた。
「最初は本当に少額だったそうです。五万円、十万円。夫は『お互い助け合いだ』と言っていました。助け合い。そんな言葉で包んでいたんです」
「森川さんも、助かっていた部分はあったんですよね」
「……たぶん。設備の修理代とか、そういうものに使っていたと聞きました。あと——息子さんの養育費」
息子。美月は本多が読み上げた森川の供述を思い出した。養育費。離婚。美月が知らなかった森川の人生が、山田の妻の口から少しずつ出てくる。
「全部、夫が悪いと言いたいわけじゃありません。森川さんも自分で決めたことです。でも、きっかけを作ったのは夫です。それだけは——お伝えしたくて」
美月は黙って聞いていた。山田の妻の声は静かだった。泣いてはいなかった。泣き終わった後の声だった。
「山田さん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「森川さんは、悪い人ですか」
山田の妻が顔を上げた。美月の目を見た。
「……わかりません。森川さんは夫に対しては、いつも丁寧でした。約束は守る人でした。金の受け渡しも、段取りもきちんとしていた。でも、それは——」
「犯罪をきちんとやっていた、ということですよね」
山田の妻が息を吸った。
「……はい。そうです」
美月はテーブルの上のお茶を一口飲んだ。温かかった。
「私は、森川さんのことを知りません。会話も数えるほどしかしていません。でも、森川さんがこの水族館を守ろうとしていたことは知っています。お金を回して、設備を直して、来館者を増やそうとしていた。それは嘘じゃなかったと思います」
「……」
「でも、そのために水質を変えた。クラゲの光を歪めた。お父さんに罪をかぶせた。それも事実です」
美月は自分の手を見た。ノートを持っていない手。何も書いていない手。
「善いことと悪いことが、同じ人の中にある。水族館を守りたい気持ちと、嘘をつく行為が、同じ人から出ている。それが——わからないんです」
山田の妻が小さく笑った。笑みというより、諦めに近い表情だった。
「私もわかりません。夫も同じです。家では普通の父親でした。子どもの宿題を見て、休みの日は釣りに連れて行って。その同じ人間が、希少種を密売していた」
「普通の人が、悪いことをする」
「はい」
「悪い人が、悪いことをするんじゃなくて」
「はい。普通の人が、少しずつ——気づかないうちに」
美月は水槽の方を見た。休憩室から水槽は見えない。でも、水の音は聞こえた。循環ポンプの音。
「光に嘘を混ぜたら、全部嘘になっちゃうんですか」
山田の妻が美月を見た。
「森川さんが水族館を守りたかった気持ちは、本当だったと思います。でも、その方法に嘘が混ざった。方法が嘘なら、気持ちも嘘だったことになるのかな。それとも、気持ちは本当のままで、方法だけが間違ったのかな」
「……難しいね」
「うん。わからない」
美月は正直に言った。わからないことは、わからないと言う。それが、ノートを書き始めたときからのルールだった。
「でも」
「でも?」
「クラゲは、水質が変われば光が変わる。光を見ただけでは、水質が変わったのか照明が変わったのかわからない。でも、記録を続ければ、パターンが見える。パターンが見えれば、原因を分けられる。照明のせいなのか、水のせいなのか」
美月はお茶を両手で包んだ。
「善い気持ちと悪い方法も、分けられるかもしれない。今はわからなくても、時間をかけて記録していけば」
山田の妻が目を閉じた。しばらくして、開けた。涙が一筋、頬を伝った。
「あなた、本当に十二歳?」
「十二歳です」
「そうね。十二歳だね」
山田の妻が立ち上がった。お茶を飲み干して、カップを両手で持った。
「美月さん。ありがとう。話してよかった」
「こちらこそ。来てくれて、ありがとうございます」
「梨、食べてくれた?」
「昨日の夜、お父さんと食べました。おいしかったです」
山田の妻が笑った。昨日より少しだけ柔らかい笑みだった。
休憩室を出て、正面玄関に向かう途中、山田の妻が展示ホールの前で足を止めた。水槽を見た。オワンクラゲが泳いでいる。LUNA照明はまだ点灯前。光っていない。透明な傘が、静かに水の中を漂っている。
「光ってないのね」
「まだ時間が早いんです。二十時三十分にならないと」
「そう」
「でも、光ってなくても、クラゲはクラゲです。光るのは生命活動のほんの一部で、普段はこうやって静かに泳いでるだけなんです」
山田の妻が頷いた。何も言わずに、正面玄関から出ていった。
美月はベンチに戻って、ノートを開いた。五十五日目。日付と時刻を書いた。
備考欄は空けておいた。今日の会話は、事実として書けるようなものではなかった。でも、忘れたくもなかった。
しばらく迷って、備考欄に一行だけ書いた。
「光に嘘を混ぜても、光は光のまま」
書いてから、ペンを置いた。これは事実だろうか。解釈だろうか。
どちらでもなかった。祈りに近い何かだった。森川の光も、お父さんの光も、クラゲの光も、嘘が混ざったからといって全部が嘘にはならない。そう思いたかった。
水槽のオワンクラゲが、ゆっくりと拍動していた。二十時三十分まで、あと二時間。光はまだ来ない。でも、来る。必ず来る。待っていれば。




