23話 釈放
九月十九日。木曜日。
美月は学校を休んだ。佐藤に電話して、「今日、お父さんが出てくる」と言った。佐藤は「知ってる。車出す」とだけ言った。
警察署に着いたのは、朝の九時だった。手続きには時間がかかると本多弁護士から聞いていた。書類の処理。持ち物の返却。身元引受人の確認。美月は未成年なので、佐藤が身元引受人として手続きをしてくれた。
ロビーで待った。前に来たときと同じプラスチックの椅子。前回は父が手錠をかけられて出てきた。ノートが膝から落ちた。あの日から、三十九日が経っていた。
今日はノートを両手で持っていた。落とさないように。新しいノートではなく、最初の一冊。表紙に「自由研究ノート——クラゲの光の観察記録」と書いてあるもの。五十三日分の記録が詰まっている。ページの端が少し曲がっていた。リュックの中で擦れたのと、何度もめくり返したのとで、角が丸くなっている。
佐藤が隣に座っていた。缶コーヒーを持っていた。今日は飲んでいた。ゆっくりと、一口ずつ。事件以来、佐藤が缶コーヒーをまともに飲んでいるのを見るのは久しぶりだった。
「緊張してるか」
「してない」
「嘘つけ」
「……してる」
「だろうな」
ロビーの壁時計が十時を指した。本多が手続きのために奥に入っていった。受付の女性が書類に判を押す音がした。日常の音。ここでは、こういう日常が毎日繰り返されている。誰かが出てきて、誰かが迎えに来て、誰かが帰っていく。
十時を過ぎた。十時半を過ぎた。美月はノートの表紙を指でなぞった。「自由研究」の文字。七月の最初の日に、自分で書いた文字。あのときは、夏休みの自由研究がこんなことになるとは思っていなかった。
十一時少し前に、廊下の奥のドアが開いた。
本多が先に出てきた。美月の方を見て、小さく頷いた。それから横に避けた。
父が出てきた。
手錠はなかった。私服だった。逮捕されたときの服ではなく、佐藤が昨日差し入れた着替え。白いポロシャツとチノパン。いつもの通勤着。いつもの格好。
痩せていた。頬の肉が落ちて、目の下の隈が濃くなっていた。髪が伸びていた。でも、背筋は伸びていた。まっすぐに歩いてきた。
美月は立ち上がった。
父と目が合った。
三十九日ぶりだった。面会の十五分を除けば、こうして同じ空間に立つのは三十九日ぶりだった。
「お父さん」
「美月」
父が足を止めた。二メートルの距離。面会室のテーブルの幅と同じくらいの距離。
美月はノートを差し出した。両手で。
「全部、記録してあるよ」
父がノートを見た。表紙を見て、それから美月の顔を見た。
受け取らなかった。
代わりに、一歩前に出て、美月の頭に手を置いた。
大きな手だった。水槽の掃除をする手。水質を測る手。クラゲの餌を調合する手。三十九日間、何にも触れなかった手。その手が、美月の頭の上で、ほんの少しだけ震えていた。
「……よくやった」
声が掠れていた。三十九日間、誰とも長い会話をしていなかったのだろう。面会の十五分だけが、人と話す時間だった。
「お父さん」
「ん」
「泣いていい?」
「俺が先だ」
父は泣かなかった。目は赤くなっていたが、涙は落ちなかった。美月も泣かなかった。泣きそうだったが、父が泣いていないのに自分が先に泣くわけにはいかなかった。親子で意地を張っていた。馬鹿みたいだと思ったが、やめられなかった。
佐藤が後ろで立ち上がる音がした。缶コーヒーを握りつぶす音。ゴミ箱に捨てる音。それから、佐藤の声。
「帰るぞ。水族館」
*
佐藤の車で水族館に向かった。
助手席に父。後部座席に美月。いつもなら美月が助手席に座るが、今日は自然と後ろに回った。父の背中が見たかった。
車窓から見える街は、三十九日前と変わっていなかった。スーパー。コンビニ。信号。海沿いの道。坂。全部同じ。世界は何も変わっていない。変わったのは、この車の中の三人だけだった。
信号で止まった。父が窓を少しだけ開けた。九月の風が入ってきた。潮の匂い。夏の終わりの匂いではなく、秋の始まりの匂いだった。父がいなかった三十九日の間に、季節が変わっていた。
「佐藤」
「ん」
「クラゲは」
「元気だ。美月ちゃんが毎日見てた。俺と田中で水質管理はやったが、記録はあの子が全部取ってくれた」
「田中が?」
「ああ。あいつも頑張ったよ。最初はビビってたが、途中から自分で動くようになった」
父が黙った。しばらくして、低い声で言った。
「……迷惑をかけた」
「かけた。たっぷりかけた。缶コーヒー百本分くらい」
「返す」
「金で返すな。クラゲで返せ。お前がいない間、LUNA照明のプログラムが少しずれてた。俺じゃ調整できなかった」
父が助手席から振り返った。美月を見た。
「毎日?」
「約束したでしょ。クラゲの世話を頼むって」
「世話って、お前——水槽の前に座ってただけだろ」
「記録するのも世話のうちだよ」
父が前を向いた。肩が小さく動いた。笑ったのか、泣いたのか、後部座席からはわからなかった。
水族館が見えてきた。駐車場に車が何台か停まっている。営業中の看板が出ていた。再開してから二週間。来館者は少しずつ戻り始めていると佐藤が言っていた。
正面玄関の前で車が停まった。三人で降りた。
父が水族館を見上げた。
小さな水族館だった。イルカもアシカもいない。地味なクラゲと深海魚と、地元の磯の生き物を展示するだけの場所。外壁の塗装が少し剥げていた。看板の文字が一つ消えかけていた。
でも、中にはクラゲがいた。循環ポンプが動いていて、水が流れていて、LUNA照明のプログラムが二十時三十分を待っている。
「入るぞ」
佐藤が鍵を開けた。通用口ではなく、正面玄関。
父が中に入った。美月がその後に続いた。
展示ホール。水の音が出迎えた。循環ポンプの低い唸り。配管を流れる水の音。空調の送風。父がいつも「水族館の心臓の音だ」と言っていた音。三十九日間、この音は一日も止まらなかった。佐藤と田中が守り続けた音だった。
父が足を止めた。展示ホールの入口で、天井を見上げた。それから壁を見た。通路を見た。何かを確認するように、一つずつ目で追っていた。自分がいなかった間に、何か変わっていないか。何か壊れていないか。飼育員の目だった。
第三水槽。オワンクラゲが泳いでいた。透明な傘が水流に乗って揺れている。まだ昼だから光っていない。でも、百五十匹の命が水の中で確かに拍動していた。
父が水槽の前で立ち止まった。ガラスに手を当てた。
長い間、何も言わなかった。
美月は少し離れた場所に立っていた。いつものベンチの横。ノートを持ったまま。
父の背中が震えていた。肩ではなく、背中全体が。声は出していなかった。泣いていた。声を出さずに、背中だけで泣いていた。水槽のガラスに当てた手が白くなっていた。
佐藤が展示ホールの入口で足を止めて、壁にもたれた。中には入ってこなかった。父と娘と水槽の間に、他人が入る隙間はなかった。
美月はノートを開いた。五十三日目のページの隣。五十四日目。日付を書いた。九月十九日。木曜日。天気、晴れ。
LUNA点灯時刻の欄は空欄にした。まだ昼だ。今夜、父と一緒にここに座って、記録すればいい。
備考欄に、一行だけ書いた。
「お父さんが帰ってきた」
事実だった。解釈ではなかった。世界で一番嬉しい事実だった。
ペンを置いて、顔を上げた。水槽の前で、父がまだ立っていた。背中の震えは止まっていた。ガラスに額をつけて、クラゲを見ていた。
美月は立ち上がって、父の隣に行った。並んで水槽の前に立った。いつもの場所。いつもの二人。
「お父さん」
「ん」
「今日の発光ピーク、一緒に記録しよう」
「……ああ」
父の声は、まだ掠れていた。でも、いつもの声だった。正しいと思うことを言うときの声でも、硬い声でもない。ただの、父の声。




