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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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22話 自白

 森川が自供したのは、逮捕から四日目だった。

 本多弁護士から連絡を受けたのは、水曜日の夕方だった。美月は水族館の展示ホールでノートを書いていた。五十三日目。発光ピーク、二十時三十八分。予測値との差なし。バックヤードの音なし。ずれなし。森川が逮捕されてから、小さなずれは完全に消えていた。

 本多の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「森川さんが全面的に自供しました。傷害の件も、密輸の件も、すべて認めています。雄一さんの嫌疑に関しても、自分が状況証拠を利用して雄一さんに疑いが向くように仕向けたことを供述しました」

「お父さんは」

「再検討の手続きに入ります。早ければ来週中にも釈放の可能性があります」

 美月は電話を握ったまま、水槽を見た。クラゲが泳いでいる。光ってはいない。LUNA照明がまだ点灯していない時間だ。透明な傘が、ゆっくりと拍動している。

「本多先生。森川さんは、なんて言ったんですか」

「どういう意味ですか」

「動機です。なぜやったのか」

 本多が少し間を置いた。

「供述調書の詳細は開示できません。ただ、雄一さんの弁護に関わる部分については、お伝えできます。面会のときに、直接話しましょう」


   *


 金曜日。面会室。

 美月と佐藤が並んで座った。向かいに本多弁護士がいた。テーブルの上に書類が一枚。本多が要約したメモだった。

「森川さんの供述から、事件の全容が明らかになりました。順を追って説明します」

 本多がメモに目を落とした。

「発端は、およそ二年前です。森川さんが以前勤務していた千葉の水族館で知り合った仕入れ業者——山田から、連絡がありました。正規の流通ルートに乗らない希少種の海洋生物を中継する場所と、生体を管理できる人間が必要だと」

「森川さんは最初から引き受けたんですか」

「いいえ。最初は断ったそうです。しかし、山田は何度も連絡をしてきた。森川さんの経済状況を知っていたようです。養育費の滞納、水族館の経費の個人立て替え。断りにくい状況を作られた、と供述しています」

 養育費。美月はその言葉で初めて、森川に家族がいたことを知った。

「最初の取引は少額でした。五万円程度。保冷ボックス一つ。ポンプ室に一晩置いて、翌朝に山田が引き取る。それだけのことでした。森川さんはその金で、濾過フィルターの交換部品を買いました。水族館の備品です」

 佐藤が低く呻いた。

「フィルターの交換が半年遅れてたのは、予算がなかったからだ。森川さんが自腹で買ってたのか」

「はい。森川さんの供述によれば、密輸で得た金の大部分は水族館の経費に充てていました。残りは養育費です。個人的な贅沢はなかったと」

 水族館を守るための金。子どもを養うための金。そのどちらも、犯罪で得た金だった。

 本多が続けた。

「取引は徐々に拡大しました。月に一度が二度になり、金額も増えた。山田の要求が大きくなっていった。森川さんは何度かやめようとしましたが、山田に『これまでの取引記録を公表する』と脅されて、抜けられなくなった」

「帳簿を書いていたのは」

「森川さん自身です。経理畑の人間ですから、記録を取る習慣があったのでしょう。皮肉なことに、その帳簿が最も有力な証拠になりました」

 美月はノートを膝の上に置いていた。開いてはいなかった。

「事件の夜のことを聞かせてください」

 本多が頷いた。

「八月十二日。金曜日の夜。森川さんは二十時頃にスーツで退館し、近くの駐車場に車を停めて作業着に着替え、二十時二十分頃に搬入口から再入館しました。鍵は自分のものです」

 美月が張り込みで見た通りのパターンだった。

「ポンプ室で配管にホースを接続し、塩化カルシウム溶液を水槽に注入しました。搬入の際に水質を変えるのは、密輸品の生体を一時的に水槽に紛れ込ませるためです。カルシウムイオン濃度を上げることで、特定の種の生存環境を整えていた」

「それが発光パターンを変えていた」

「はい。森川さんはそのことに気づいていませんでした。クラゲの発光メカニズムまでは理解していなかった。美月さんのノートを見て初めて、自分の操作が記録されていることを知ったんです」

 ノートを借りた夜。「お父さんの無実のためになるかもしれない」。あの穏やかな笑みの裏で、森川は自分の犯行が記録されていることを確認していた。

「搬入作業の途中で、山田が予定より早く来ました。引き取りは翌朝の約束でしたが、山田は金を前払いで要求してきた。森川さんは『翌朝に渡す』と言いましたが、山田は引かなかった。口論になり、揉み合いになった。山田が壁に頭をぶつけて倒れた。森川さんは救急車を呼ばず、保冷ボックスの中身を搬入口の外に出して、そのまま退館しました」

 佐藤が腕を組んだ。組んだ手が白くなっていた。

「山田を放置したのか」

「はい。森川さんの供述では、パニック状態だったと。搬入口のガラスは、山田が揉み合いの最中に体をぶつけて割れたものです」

 美月は一つだけ聞いた。

「森川さんは、お父さんのことを何て言ってましたか」

 本多がメモを見た。そこに書いてある一行を、声に出して読んだ。

「『白石は一番正直な人間だった。だから利用した。正直な人間が疑われれば、自分は安全になる。嘘をついている人間よりも、正直に答える人間の方が怪しく見える。それを知っていた。最初から知っていた』」

 美月は何も言わなかった。

 佐藤も何も言わなかった。

 面会室が静かだった。空調の音だけが聞こえた。水族館の循環ポンプとは違う音。冷たくて、乾いた音。

 美月が口を開いた。

「森川さんは、もう一つ言ってませんか」

「もう一つ?」

「クラゲのことです」

 本多がメモをめくった。最後のページ。

「……ありました。取り調べの最後に、森川さんがこう言ったそうです」

 本多が読み上げた。

「『光に嘘を混ぜた。クラゲは気づいていたんですね』」

 美月は目を閉じた。

 光に嘘を混ぜた。水質を変えることで、クラゲの光のパターンを変えた。森川にとっては密輸のための手段でしかなかった。でもクラゲは正直に反応した。光が変わった。ずれた。記録された。

 気づいていたのはクラゲではない。クラゲはただ、環境に反応しただけだ。気づいたのは、クラゲの光を四十七日間記録し続けた、美月のノートだ。

 でも、森川の言い方も間違いではなかった。クラゲが正直に光を変えなければ、美月は何も記録できなかった。

 クラゲが気づいていた。ノートが記録した。美月が読み解いた。

 三つが揃って、初めて光の嘘が暴かれた。


   *


 面会室を出て、駐車場まで歩いた。九月の夕方。日が短くなり始めていた。

「来週だ」

 佐藤が言った。

「来週、お前のオヤジが帰ってくる」

 美月は頷いた。泣かなかった。泣いている場合ではなかった。まだ。

 車に乗り込んで、シートベルトを締めた。佐藤がエンジンをかけた。

「佐藤さん」

「ん」

「帰ったら、新しいノートを買いに行っていい?」

「新しい?」

「今のノート、もうすぐページがなくなる」

 佐藤がバックミラーを見た。美月の顔を見て、すぐに前を向いた。

「好きなの買え。レシートは要らん」

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