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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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21話 倉庫

 捜索令状が出たのは、三日後の月曜日だった。

 美月は学校にいた。授業中に佐藤からメッセージが来た。


 『令状出た。今日の午後、バックヤード捜索。来るか?』


 五時間目の終わりに早退した。担任には「家庭の事情です」とだけ言った。嘘ではなかった。


   *


 水族館に着いたとき、バックヤードの入口に鑑識の車が停まっていた。白い手袋をした捜査員が四人、通路を行き来している。佐藤が正面玄関の前で待っていた。

「早かったな」

「自転車で来た」

「中に入れるかは警察次第だ。立ち入り制限がかかってる」

 本多弁護士が到着した。警察と話をして、美月と佐藤は展示ホールまでの立ち入りを許可された。バックヤードには入れない。展示ホールの端、バックヤードとの境界にあるガラス窓から、捜索の様子を見ることになった。

 美月はガラス越しに見ていた。捜査員がポンプ室のドアを開ける。鍵は森川の私物から押収されたものを使ったらしい。

 ポンプ室の中。循環ポンプ。配管。弁。美月がタイムラインに「循環弁逆位置」と書いた場所。事件の朝、父が最初に異常に気づいた場所。

 捜査員の一人が、配管の裏側からホースを引き出した。灰色のゴムホース。長さは二メートルほど。片端に接続用のジョイントがついていた。水族館の標準設備にはない形状だった。佐藤が隣で目を細めて言った。

「あれはうちの備品じゃない。口径が違う。うちのは二十ミリだが、あれは三十ミリだ」

「何に使うんですか」

「外部から水を入れるための仮設ホースだ。あのホースを循環配管に接続すれば、展示水槽にポンプ室から直接水を送り込める。バケツからでも、別のタンクからでも」

 カルシウムイオン。セレンテラジン。ホースを通じて水槽に流入した水が、発光パターンを変えていた。

 美月はノートに書いた。事実だけを。


 「ポンプ室から非正規ホース発見。口径が標準と異なる。外部から水槽への注入用と推定(佐藤確認)」


 捜査員が次に向かったのは、バックヤードの奥にある小部屋だった。倉庫3-B。普段は使われていない予備の保管庫で、鍵は副館長が管理していた。

 ドアが開いた。ガラス越しに全容は見えなかったが、捜査員の動きで何かが出てきたことはわかった。最初に出てきたのはダンボール箱だった。一つ、二つ、三つ。側面にマジックで日付が書いてある。捜査員が慎重に扱っている。証拠品として扱う手つきだった。

 その後に、プラスチックの収納ケースが四つ。半透明のケースで、中に何かが入っているのがガラス越しにもわかった。液体の入った容器。試薬の瓶。ラベルが貼ってある。

 最後に、捜査員が小さな冷蔵庫を運び出した。倉庫3-Bに冷蔵庫があること自体、美月は知らなかった。佐藤も眉をひそめていた。

「あんなもの、あそこにあったか」

「なかったんですか」

「俺が最後にあの倉庫に入ったのは一年以上前だ。そのときは空っぽだった」

 一年以上。帳簿の開始時期とほぼ一致する。森川は一年半かけて、あの小部屋を密輸の拠点に作り替えていたのだ。捜査員が手袋を替えた。収納ケースの一つを開ける。中を覗き込んで、別の捜査員を呼んだ。二人で中身を確認している。何かが動いている。水の音がかすかに聞こえた。

 佐藤が窓に手をついて、目を細めた。

「生体だ。ケースの中に水が入ってる。何かいる」

「クラゲですか」

「わからん。ここからじゃ見えない」

 本多が警察の担当者と話をして戻ってきた。

「倉庫3-Bから、以下のものが発見されました」

 本多がメモを読み上げた。

「一。帳簿。手書きの入出金記録。日付と金額が記載されています。二。納品伝票の控え。海洋生物の仕入れ・出荷に関するもの。正規の取引記録とは別系統です。三。現金。封筒に入った状態で、複数。四。保冷ボックス二つ。中に海洋生物が生存状態で保管されていました。五。塩化カルシウムの試薬ボトル。水族館の正規備品リストに記載のないものです」

 美月は五つ目で息を吸った。塩化カルシウム。カルシウムイオンの供給源。これをホースで水槽に流し込めば、カルシウムイオン濃度が上がる。エクオリンが反応する。クラゲが光る。

 全部、繋がった。ホースが手段。塩化カルシウムが材料。ポンプ室が現場。そして、美月のノートが記録していた「早い方向のずれ」が、結果。

 美月は黒板に書かれた問題を読むように、一つ一つ頭に入れていった。帳簿。伝票。現金。生体。試薬。五つの証拠が、十八ヶ月の犯行を物語っている。

「帳簿の期間は」

「最初の記載は昨年の二月です。およそ十八ヶ月分」

 十八ヶ月。一年半。美月がノートを書き始めるよりずっと前から、森川はこの水族館を使って密輸を続けていた。

「金額は」

 本多が一瞬だけ言葉を選んだ。

「帳簿上の取引総額は、約二千八百万円です」

 二千八百万。

 美月はその数字を聞いて、あの夜を思い出した。七月末の会議。窓が開いていて、二階から声が降りてきた。「年度末には二千四百万の赤字」。森川はその赤字を埋めるために始めたのか。それとも、赤字の前から始めていたのか。帳簿の最初の記載は昨年の二月。赤字が確定するより前だ。

 動機は赤字だけではなかった。もっと前から、森川は何かに追い詰められていた。

 美月は本多の方を見た。

「二千八百万円は、どこに行ったんですか」

「帳簿を精査しないと正確にはわかりません。ただ、封筒の中に残っていた現金はごくわずかでした。大部分はすでに使われている」

「水族館の経費に?」

「それも含まれるでしょう。森川さんの個人的な支出もあるかもしれません。いずれにせよ、帳簿が全容を語ってくれるはずです」

 十八ヶ月分の帳簿。一ページずつ、日付と金額が手書きで記されている。森川はその一行一行を、事務室で一人、夜遅くまで残って書いていたのだろう。水族館を守るための数字が、水族館を壊す数字になった。


   *


 捜索が終わったのは、夕方だった。

 バックヤードから押収物が運び出されていく。段ボール箱、収納ケース、帳簿、封筒、冷蔵庫。水族館の「裏側」が、白い手袋の捜査員たちの手で一つずつ外に出されていく。搬入口から鑑識の車に積み込まれる様子が、正面玄関のガラス越しにかすかに見えた。

 大野館長が事務室から出てきて、搬出の様子を見た。何も言わなかった。白髪交じりの頭が、いつもより白く見えた。ぬるい緑茶を淹れていた人の背中が、ひどく小さかった。

 美月は展示ホールに残っていた。いつものベンチ。いつもの場所。水槽の前。

 オワンクラゲが泳いでいる。LUNA照明は消えている。通常の展示照明だけ。クラゲは光っていない。透明な傘が、穏やかに拍動している。何も知らない。何も気にしていない。水が変われば光り、水が戻れば消える。それだけの生き物。

 佐藤が隣に座った。缶コーヒーを二つ持っていた。一つを美月に差し出した。

「飲めるか」

「ブラックは苦手」

「カフェオレだ」

 美月は缶を受け取った。冷たかった。一口飲んだ。甘かった。

「佐藤さん」

「ん」

「お父さん、いつ出てこれますか」

「本多先生が動いてる。早ければ来週には再検討が始まるって」

「来週……」

「待てるだろ」

「待てる。待つのは得意。記録してれば、時間は過ぎるから」

 佐藤が缶コーヒーを飲み干した。

「お前のオヤジはな、俺が十年で見てきた中で一番正直な飼育員だった。嘘がつけない。ごまかせない。それが弱点でもあった」

「……うん」

「森川さんは、その正直さを利用した。正直な人間が疑われれば、嘘をついている人間は安全になる。お前のオヤジは、正直さを武器にされたんだ」

 美月はカフェオレを握ったまま、水槽を見ていた。

「でも、クラゲは正直だった」

「ああ」

「水が変われば光る。変わらなければ光らない。嘘がつけない。ごまかせない。お父さんと同じ」

 佐藤が何か言おうとして、やめた。缶を握りつぶして、立ち上がった。

「来週、面会に行こう。俺が車を出す」

「ありがとう」

「カフェオレの礼はいらないからな」

「言ってない」

 佐藤が背中を向けて歩いていった。いつもの軽い歩き方だった。でも、肩がほんの少しだけ震えていた。

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