17話 田中の証言
佐藤から電話があったのは、月曜日の放課後だった。
「美月ちゃん。今日、水族館に来れるか」
「行ける。何かあった?」
「田中が話したいことがあるって」
田中。若手の飼育スタッフ。入社二年目。佐藤の下で展示水槽の管理を担当している。美月とは顔見知り程度で、会話らしい会話はしたことがなかった。
「田中さんが、私に?」
「俺に話してきたんだ。でも俺じゃなくて、お前に直接話した方がいい内容だった」
*
水族館の休憩室。自販機の横の丸テーブルに、田中が座っていた。二十四歳。短髪。作業着のまま。缶のお茶を両手で包むように持っている。緊張しているのが姿勢でわかった。
美月が向かいに座ると、田中は目を伏せた。
「白石さん——美月ちゃん。あの、前から気になってたことがあって」
「はい」
「事件の前の週の——金曜日だったと思います。夜。二十一時過ぎ。残業してたんです。水槽のフィルター清掃が終わらなくて」
美月はノートを出した。田中がそれを見て、少し怯んだ。
「記録していいですか」
「……はい。お願いします」
「続けてください」
「バックヤードの通路を歩いてたら、ポンプ室の前で副館長——森川さんを見ました」
美月のペンが止まった。
「森川さんは台車を押してました。保冷ボックスが載ってた。一つ。蓋が閉まってて、中身は見えなかったです」
「何時ですか」
「二十一時十分くらいだと思います。壁の時計を見たわけじゃないので正確じゃないですが」
「森川さんは何か言いましたか」
「言いました。『搬入業者が間違えた荷物を返送するんだ。明日の朝に引き取りが来る』と」
「田中さんは、それを信じましたか」
田中が顔を上げた。美月の目をまっすぐ見た。
「そのときは信じました。副館長の言うことですから。でも——」
「でも」
「保冷ボックスの横に、封筒が挟まってたんです。茶封筒。台車の縁と保冷ボックスの隙間に。森川さんが台車を動かしたとき、封筒が落ちそうになって、森川さんが拾って上着のポケットに入れた。その動きが——なんというか、慌ててた。普段の森川さんは、そういう慌て方をしない人なので」
美月は書いた。一字一字、丁寧に。
「事件前週金曜21:10頃。田中証言。森川副館長がポンプ室前で台車+保冷ボックス1個。茶封筒を上着ポケットに。理由は『返送品』と説明」
「田中さん。その封筒、何か書いてありましたか」
「遠かったので全部は見えなかったです。でも、表面に数字が書いてあった気がします。手書きの数字。金額みたいな」
美月の心臓が速くなった。封筒。手書きの数字。事件現場で見つかった封筒と同じものかどうかはわからない。でも、森川がポンプ室で茶封筒を持っていたという事実は、封筒と森川を繋ぐ証言になる。
「なぜ、今まで言わなかったんですか」
田中が目を伏せた。
「主任——お前のお父さんが逮捕されたとき、正直、俺は何がなんだかわからなかった。森川さんの台車を見たのは事実だけど、それが事件と関係あるのかどうか、判断がつかなかった。副館長を疑うようなことを言っていいのか。間違ってたら、俺が——」
「わかります」
美月が静かに言った。田中が顔を上げた。
「間違うのが怖かった。わかります。私もずっとそうだった」
田中が唇を噛んだ。二十四歳の大人が、十二歳の子どもに頷かれている。その構図の歪さを、美月は感じていた。
「でも、今話してくれた。ありがとうございます」
田中は何も言わなかった。缶のお茶を一口飲んで、立ち上がった。
「佐藤さんに言ったのは、先週です。佐藤さんが『美月ちゃんに話せ』って」
「佐藤さんらしいですね」
「……あの人は最初から何か気づいてたんだと思います。俺よりずっと前から」
*
翌日。弁護士の本多に、佐藤が連絡を取った。
面会に同席する形で、美月は資料を渡した。ノートのコピー——佐藤が取っておいた分。張り込みの記録。田中の証言のメモ。
本多は五十代の男で、眼鏡の奥の目が細かく動いた。資料を一枚ずつめくり、時折ペンで印をつけた。
「この発光パターンの記録は、毎日同じ条件で観察したものですか」
「はい。同じ場所、同じ時間帯、同じ水槽です。ストップウォッチで計測してます」
「装置は使っていない。目視と手動計測」
「はい」
本多がノートのコピーを見つめた。
「正直に言います。これは、かなり強い」
美月の肩が少しだけ下がった。
「逮捕後もパターンが継続しているという記録は、雄一さんが原因ではないことを示す傍証になります。田中さんの証言も、封筒と森川副館長を繋ぐ間接証拠として有効です」
「でも」
「でも、まだ直接証拠ではない。目視の記録と伝聞証言だけでは、裁判で争うには足りません。夜間に何が行われていたかを、客観的なデータで示す必要がある」
「水質データですか」
「カルシウムイオン濃度の夜間変動を計測できれば、発光パターンの変化と水質変化を直接結びつけられます。それがあれば、裁判での再検討を求める根拠になる」
美月は頷いた。やはり、足りないのは夜間の水質データだった。
本多が眼鏡を直した。
「白石さん。一つ聞いていいですか」
「はい」
「このノート、最初は自由研究として始めたんですよね」
「はい」
「今はどういうつもりで書いていますか」
美月は少しだけ考えた。
「証拠として」
本多が微かに笑った。厳しい顔の中に、初めて柔らかさが見えた。
「いい答えです。では、証拠として扱えるように、記録方法を少し改善しましょう。私が助言します」




