16話 健太の選択
張り込みの翌日、健太が学校を休んだ。
美月は昼休みに電話をかけた。出なかった。放課後にもう一度かけた。三回目のコールで出た。
「……よう」
「なんで休んだの」
「風邪」
「嘘でしょ」
健太が黙った。背景音がいつもと違う。野球中継もなければ、テレビの音もない。家の中が静かすぎた。
「母ちゃんにバレた」
「張り込みのこと?」
「帰りが遅かったから。十時過ぎに帰ったら、玄関で待ってた。どこにいたか聞かれて——言った」
「全部?」
「全部。水族館のこと、美月のこと、人影を見たこと。全部言った。嘘つけない性格なんだよ、俺」
美月は黙った。健太の母親は、美月にとって週に二回おかずを届けてくれる人だ。父が逮捕された後、何も言わずに食事を作ってくれた人。美月のことを嫌っているわけではない。だからこそ、息子を巻き込みたくないのだろう。
「母ちゃんが言った。『あの子のことは気の毒だけど、あんたが関わることじゃない。夜に出歩いて、犯罪者の——』」
健太が言葉を切った。
「続けて」
「……いい。あとは聞かなくていい」
犯罪者の娘。その言葉が来たのだろう。健太の母親がそう言ったのなら、それは善意の裏返しだ。息子を守りたい。当然の感情。美月には、それを責める権利はない。
「健太。お母さんの言うことは正しいよ」
「は?」
「正しい。夜に出歩くのは危ない。小学生が犯罪に関わる必要はない。お母さんは正しい」
「お前なあ」
「でも、正しいかどうかと、やるかどうかは別の話」
健太が五秒黙った。
「お前がそれ言うのかよ」
「私は自分の父親のことだから、やる理由がある。健太にはない。だから、降りていい。降りてくれても怒らない」
「怒らないとかそういう話じゃないだろ」
「じゃあ何の話」
健太がため息をついた。いつもの大きなため息ではなかった。もっと静かな、何かを決めたあとの息だった。
「俺が張り込みに行ったのは、お前に頼まれたからじゃない」
「え?」
「お前が電話してきたから行った。頼まれたから行ったんだと思ってたけど、違った。植え込みの陰にしゃがんで、暗い水族館の裏を見てるとき、わかった。俺は自分で行きたかったんだ」
「なんで」
「あのオヤジが水槽に向かって『今日は調子いいな』って言ってるのを、俺は聞いてる。あのオヤジがそんなことする人間じゃないのは俺が知ってる。知ってるのに何もしなかったら、知らなかったのと同じだろ」
美月は電話を握る手に力がこもった。
「……ありがとう」
「だから、ありがとうは——」
「いいから聞いて。ありがとう。でも、お母さんには謝って。心配させたことは事実だから」
「謝った。今朝。そしたら泣かれた。泣かれたから学校休んだ。母ちゃんが泣いてる日に学校行ける気がしなかった」
美月は少しだけ笑った。健太は行動の人だが、母親が泣いたら動けなくなる。そういう子だ。
*
日曜日。美月の部屋。
健太が来た。リュックにノートとペンを入れて、自転車で来た。母親には「美月のところで勉強する」と言ったらしい。嘘ではない。勉強ではないが、調べ物ではある。
美月はテーブルの上に資料を並べた。
自分のノート。四十七日分の記録。
LUNA照明の操作ログ。父に頼んで印刷してもらった分と、事件後に佐藤が追加で入手してくれた分。
佐藤がコピーしたノートの控え。
セレンテラジンの納品書の写真。スマートフォンで撮っていた。
張り込みの記録。日時、音の開始と終了、発光パターンの変化、健太の目撃情報。
「これで全部?」
「全部。ここから、弁護士に出せる形にまとめる」
「弁護士って、お前のオヤジの弁護士?」
「佐藤さんが連絡先を教えてくれた。来週、面会のときに渡せるように準備する」
健太がノートをめくった。グラフのページで手が止まった。
「これ、お前が全部手で描いたのか」
「パソコン持ってないから」
「すげえな。ちゃんとしてる」
「ちゃんとしてないと証拠にならない」
二人で資料を整理した。美月が分類し、健太がラベルを貼った。健太の字は大きくて少し雑だったが、読みやすかった。
三時間かけて、資料を時系列で並べ替えた。発光パターンの変化、LUNA操作ログ、バックヤードの音の記録、張り込みの観察結果。
全部並べて、美月は眉をひそめた。
「足りない」
「何が」
「これだけだと、『12歳の子どもの日記』で終わる。パターンがある、音がした、人影を見た。全部、状況証拠にもならない。弁護士が裁判で使える証拠にはならない」
「じゃあ何が要るんだ」
「二つ。一つは、夜間の水質データ。朝と午後の検査では異常が出ない。夜にカルシウムイオン濃度が変化して、朝までに戻っている可能性がある。それを計測できれば、水が変えられている証拠になる」
「もう一つは」
「誰がやっているかの特定。人影では駄目。顔が見えないと」
健太が腕を組んだ。
「夜の水質データなんて、どうやって測るんだよ。お前、検査キット持ってるのか」
「持ってない。でも、佐藤さんに頼めば水族館の機材を使わせてもらえるかもしれない」
「顔の特定は?」
「もう一度張り込む。次はもっと近くで。カメラを持って」
「……お前、さっき『危ないことはしない』って言わなかったか」
「言ってない。お父さんには言った。健太には言ってない」
健太が天井を見上げた。
「俺、母ちゃんに泣かれるの二回目はきついんだけど」
「私だって、お父さんに心配されるのはきつい。でも、きつくても、やる」
健太は天井から目を下ろして、美月を見た。美月はノートの上で手を組んでいた。震えていなかった。
「……わかった。次の金曜だな」
「ありがとう」
「いいから。で、今日の晩飯どうするんだ。冷蔵庫空っぽだろ」
「……見ないでよ」
「母ちゃんが肉じゃが持ってこいって言ってた。玄関にある」
美月は玄関に行った。紙袋が置いてあった。肉じゃがと、きゅうりの浅漬けと、おにぎりが三つ。三つ。美月の分だけではなく、健太の分も入っている。
健太の母親は、息子の行き先をわかっていたのだ。




