15話 20時27分
金曜日。閉館後。
美月はいつものベンチに座っていた。ノートを膝の上に開いて、ストップウォッチを手に持っている。四十七日目の記録。いつもと同じ。
いつもと違うのは、ポケットの中でスマートフォンがマナーモードで震える準備をしていることだった。
健太は水族館の裏手にいる。搬入口が見える植え込みの陰。二十時に自販機の前で合流して、配置についた。健太は黒いパーカーのフードを被っていた。「夜の張り込みはこうだろ」と言った。美月は「目立つからやめて」と言った。健太はフードを脱がなかった。
二十時十五分。職員が帰り始める。佐藤が展示ホールを通りかかったとき、美月に気づいて軽く手を上げた。「今日も遅くまでか」「うん」。それだけの会話。佐藤は何も聞かなかった。
二十時二十分。森川が事務室から出てきた。二階の廊下を歩く足音。革靴の硬い音。階段を降りて、正面玄関に向かった。展示ホールを横切るとき、美月の前を通り過ぎた。
「美月ちゃん。今日も遅くまで?」
「はい。記録が途中なので」
「えらいね。気をつけて帰りなよ」
穏やかな笑み。いつもの笑み。美月は「ありがとうございます」と言った。森川は頷いて、正面玄関から出ていった。車のエンジンがかかる音。遠ざかっていく。
美月はスマートフォンを見た。健太からのメッセージ。
『スーツの人が車で出た。駐車場に車あと1台』
あと一台。大野の車だろう。館長は金曜日だけ遅くまで残ることがある。
二十時二十三分。大野が出てきた。正面玄関で鍵を確認している音。施錠音。車のドアが開いて閉まる音。エンジン。遠ざかる。
『もう1台も出た。駐車場空っぽ』
美月は展示ホールに一人になった。通用口から入ったので、正面玄関の施錠には影響しない。通用口の鍵は佐藤に借りてある。「遅くまで記録するから」と言った。嘘ではない。
水槽の光だけが、暗い展示ホールを照らしている。LUNA照明は二十時三十分に自動点灯する。あと五分。
静かだった。循環ポンプの低い唸り。配管の中を水が流れる音。空調の送風。生き物を生かすための機械音。父がいつも「水族館の心臓の音だ」と言っていた音。
二十時二十七分。
音が変わった。
展示ホールの奥——バックヤードとの境界あたりから、低い機械音が聞こえた。ポンプの唸りとは違う。もっと断続的で、水を動かしている音。ノートの備考欄に何度も書いた「バックヤード方面から低い音」。これだ。
美月はストップウォッチを押した。二十時二十七分十五秒。
音は四分ほど続いた。二十時三十一分に止まった。
同時に、LUNA照明が自動で点灯した。紫外線ライトの青紫色が水面を照らす。いつものプログラム。いつもの時刻。
美月は水槽を見つめた。
一分。
二分。
二分四十秒——光った。
第三水槽の中央やや上。一匹のオワンクラゲの傘の縁が、淡い緑色に光り始めた。
二分四十秒。通常は三分。二十秒早い。
普段なら誤差の範囲だ。でも、今日は違った。あの音が二十時二十七分に始まっている。LUNA照明より三分早く、何かが水槽の環境を変えた。
三分十秒で二匹目が光った。三分四十秒で三匹目。光の広がりが速い。通常より明らかに速い。五分でピークに達した。通常は七分から八分かかる。
ピーク時刻、二十時三十六分。予測値は二十時三十八分。二分前倒し。
小さなずれ。早い方向。いつものパターン。
でも今日は、美月はその原因が起きた瞬間を記録している。二十時二十七分の音。四分間の断続的な機械音。LUNA照明は自動のまま。照明は変わっていない。
変わったのは、照明以外の何かだ。
スマートフォンが震えた。
『裏の搬入口のそば、人影あった。暗くてはっきり見えないけど、建物の中に入っていった。正面じゃない。横のドアみたいなところから』
美月の心臓が跳ねた。
職員は全員帰ったはずだ。駐車場は空だった。正面玄関は施錠されている。
なのに、誰かが建物に入った。横のドア——通用口か、搬入口か。
『出てきた。台車みたいなの押してる。暗くてよく見えない。すぐいなくなった』
美月は返信を打った。指が震えていた。
『追わないで。絶対に。隠れてて』
健太からの返信。
『追ってない。怖かったから動けなかった。正直に言う』
美月は少しだけ笑った。それから笑いが消えた。
二十時二十七分。誰かが入ってきた。バックヤードで何かをした。四分後に出ていった。その間に、クラゲの発光パターンが変わった。
照明ではない。なら、何が変わった。
ノートの備考欄を見返した。四十五日分の記録。早い方向にずれた日の共通点。バックヤードの音。断続的な機械音。水を動かしている音。
水を——。
美月は顔を上げた。水槽を見た。オワンクラゲが光っている。緑色の光。ピークを過ぎて、ゆっくりと弱まっていく。
水。
循環ポンプ。配管。弁。事件の朝、逆位置だった弁。ポンプ室から水槽に繋がるライン。
カルシウムイオン。お父さんのロッカーにあった納品書。「Ca²⁺調整済」のスタンプ。
水の中に、何かを入れている。
美月は息を吸った。展示ホールの空気は、いつもと同じ温度だった。水槽の光は、いつもと同じ色だった。でも、今夜から全てが違って見えた。
ノートに書いた。
「20:27、バックヤード方面から断続的機械音(〜20:31)。LUNA照明は20:30自動点灯、操作なし。発光ピーク20:36(予測20:38)、2分前倒し。健太が外から人影を確認。施錠後に侵入、台車で何かを搬出」
ペンを止めて、一行空けた。
その下に、初めて解釈を書いた。
「光を変えているのは照明ではない。水」




