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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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13話 ノートの危機

 水族館が限定的に再開したのは、事件から十日後だった。

 バックヤードの一部はまだ立入禁止だったが、展示ホールと正面エリアは営業できる状態になった。来館者は事件前の半分以下だった。報道を見て来なくなった家族連れと、報道を見て興味本位で来た野次馬。佐藤は「野次馬でも入館料を払うなら客だ」と言って、受付に立っていた。

 美月は放課後、毎日水族館に通っていた。父との約束。「クラゲの世話を頼む」。世話といっても、美月にできることは水槽の前に座ってノートを開くことだけだった。餌やりも水質管理も佐藤たちがやっている。美月はただ、いつもの場所で、いつものように記録を続けた。

 三十九日目。四十日目。四十一日目。発光ピークの記録。備考欄。LUNA照明は事件後、自動プログラムのみに戻されていた。手動操作なし。遅延方向のずれは消えた。

 しかし、早い方向のずれは——消えていなかった。

 四十日目。ピーク時刻が三分早い。備考欄に「バックヤード方面から低い機械音、21:03〜21:07」。

 事件の後も、続いている。


   *


 四十二日目の夕方。森川が展示ホールに来た。

 美月はベンチでノートを書いていた。顔を上げると、森川が三メートルほど先に立っていた。いつものスーツ。いつもの穏やかな笑み。事件の後、森川は一度も表情を変えなかった。動揺も、怒りも、悲しみも見せなかった。副館長として粛々と業務を続けていた。

「美月ちゃん。毎日来てくれてるんだね」

「お父さんとの約束だから」

「そうか」

 森川がベンチの隣に座った。美月との間に一人分の隙間を空けて。

「お父さんのこと、大変だったね」

「……はい」

「俺も信じてるよ。雄一くんがあんなことをする人間じゃないことは、一緒に働いてきた俺が一番よくわかってる」

 佐藤と同じことを言っている。でも、佐藤のときは缶コーヒーを握る手が震えていた。森川の手は、膝の上で静かに組まれていた。

「美月ちゃん、そのノート」

「これ?」

「クラゲの発光記録を取ってるんだよね。お父さんから聞いてた。すごいなって」

「自由研究だから」

「それさ、お父さんの無実の証拠になるかもしれない」

 美月の手が止まった。

「ノートの発光記録と、LUNA照明のログを照合すれば、お父さんが夜間に水槽に異常な操作をしていなかったことを証明できるかもしれない。弁護士に見せる資料として、意味があると思うんだ」

 森川の声は穏やかだった。理路整然としていた。あの会議の夜と同じ話し方。結論に向かって一直線に進む声。

「少しだけ借りてもいいかな。コピーを取って、弁護士に渡したいんだ」

 美月は森川の顔を見た。穏やかな笑み。何を考えているのかわからない顔。初めて森川を見たときの印象が蘇った。穏やかに笑っているのに、奥が見えない人。

 でも、父の無実を証明できるなら。

「……わかりました」

 美月はノートを閉じて、森川に差し出した。

 森川がノートを受け取った。両手で丁寧に。表紙を少しだけ見て、「ありがとう。明日には返すよ」と言った。

 森川が立ち上がって、事務室の方に歩いていった。

 美月はベンチに座ったまま、自分の空っぽの手を見ていた。ノートがない。三十五日分——いや、四十二日分の記録が、手元にない。

 胸の奥に、小さな不安が灯った。


   *


 十五分後。

 佐藤がバックヤードから出てきた。美月の隣に座って、缶コーヒーを開けた。事件後、初めて缶コーヒーを開ける音を聞いた。

「ノート、森川さんに渡したのか」

「見てたの」

「バックヤードの窓から見えた」

 佐藤が一口飲んで、缶をベンチの横に置いた。

「俺がコピー取った」

「え?」

「森川さんがコピー機使ってる間、隣にいたんだ。『俺も控えが欲しい、飼育記録として保管したい』って言って、もう一部コピーさせてもらった」

 美月は佐藤の顔を見た。佐藤はいつもの軽い顔をしていた。でも目が笑っていなかった。

「佐藤さん。なんでコピーを」

「念のためだ」

「念のため?」

 佐藤が缶コーヒーを持ち上げて、一口飲んだ。

「美月ちゃん。念のためだ。それ以上は聞くな」

 美月は黙った。佐藤が「念のため」と言うとき、その裏には言葉にできない判断がある。大人の備考欄だ。

「コピーは俺が持ってる。何かあったら、いつでも出せる」

「何かって、何」

「だから、念のためだって」

 佐藤が立ち上がった。缶コーヒーを一気に飲み干して、自販機の横のゴミ箱に捨てた。背中を向けたまま、小さく言った。

「お前のオヤジに頼まれてるんだよ。娘を守れって」


   *


 翌日、森川がノートを返しに来た。

「ありがとう。弁護士に見せる資料として、コピーを取らせてもらったよ」

「はい」

 美月はノートを受け取った。表紙を確認する。中身をぱらぱらとめくる。ページは全部揃っている。書き込みも消去もない。

 ただ、一箇所だけ。

 ノートの綴じ部分に、折り跡がついていた。中央よりやや後ろ。三十日目から三十五日目のあたり。ページを大きく開いて、コピー機のガラス面に押しつけたときにつく跡だ。

 コピーを取ったのは事実だろう。問題は、なぜそのページだけ折り跡が深いのか。三十日目から三十五日目。LUNA手動操作が始まった後の期間。美月が「早い方向のずれ」と「バックヤードの音」の連動を記録した期間。

 森川は何を確認したかったのか。

 弁護士に渡すためなら、全ページを均等にコピーすればいい。特定のページだけ折り跡が深いということは、そのページを重点的に見たということだ。

 美月はノートを抱えて、ベンチに座った。

 証明計画のページを開いた。①の下に、②を書き足した。


 「②ノートを見た人間が、何を気にしたのかを考える」

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