12話 犯罪者の娘
夏休みが終わった。
九月一日。始業式。美月は教室に入った瞬間、空気が変わるのを感じた。
変わった、というよりも、止まった。それまでざわついていた教室が、美月の姿を認めた途端、一拍だけ静かになった。一拍の後、またざわめきが戻る。でもその中身が違っていた。美月に向けられた視線が、夏休み前とは別のものになっていた。
席に着いた。隣の席の女子が、鞄を少しだけ自分の方に寄せた。小さな動き。気のせいかもしれない。気のせいだと思おうとした。
一時間目が始まるまでの十分間に、誰も話しかけてこなかった。
美月は元々、友達が多い方ではなかった。クラスで親しく話す相手は三人か四人。放課後に一緒に帰る子が一人。その子も、今朝は目が合うと逸らした。
——知ってるんだ。
父の逮捕は地方紙に載った。名前は伏せられていたが、「市内の水族館」「飼育員の男」という表記で、知っている人間にはすぐにわかる。夏休みの間に、保護者のSNSか、子ども同士のLINEグループで広まったのだろう。
二時間目の休み時間。廊下を歩いていたら、後ろで声がした。
「——あの子のお父さんでしょ」
「水族館の」
「逮捕されたって」
「やばくない?」
振り返らなかった。足を止めなかった。
四時間目の理科で、班に分かれて実験をした。美月の班は四人。普段なら役割分担を決めるときに「美月、記録やって」と言われる。美月はいつも記録係だった。記録が正確だからだ。
今日は誰も言わなかった。三人が黙って準備を始めて、美月は何をすればいいのかわからないまま立っていた。結局、使い終わったビーカーを洗った。それが、いつの間にか美月の役割になっていた。
トイレの個室に入って、鍵をかけた。便座の蓋に座って、膝を抱えた。
泣かなかった。泣いたら、目が赤くなる。赤い目で教室に戻ったら、「泣いてた」と言われる。それは事実になってしまう。事実は記録される。記録されたら消せない。
——事実だけを見ろ。
美月は目を閉じて、三つ数えた。立ち上がって、鍵を開けて、廊下に出た。
*
昼休み。
美月は教室で弁当を食べていた。父がいないので弁当は自分で作った。昨夜の残りの卵焼きと、冷凍のコロッケと、白いご飯。母がいた頃はキャラ弁だった。父になってから白飯と焼き魚になった。今は白飯と冷凍食品だ。段階的に質が落ちている。そのことが、少しだけおかしかった。
教室の端で一人で食べていると、椅子を引く音がした。
「よう」
健太が、自分の弁当を持って隣に座った。
「隣いい?」
「いいけど」
「いいけどじゃなくて、ありがとうだろ」
「……ありがとう」
健太は弁当を開けた。美月のより明らかに豪華だった。肉巻きと海老フライとポテトサラダ。健太の母親は料理が上手い。
「あのオヤジがそんなことするわけないじゃん」
唐突に言った。声は小さくなかった。周囲に聞こえる音量だった。
「健太」
「なんだよ」
「声でかい」
「聞こえた方がいいんだよ。あのオヤジが人を殴るような人間じゃないことは、夏休みに水族館に行った奴ならわかるはずだ。クラゲ相手に『今日は調子いいな』って話しかけてる人間だぞ」
美月は箸を止めた。
「……聞いてたの」
「聞こえたんだよ。閉館後にお前と帰る準備してたとき、お前のオヤジが水槽に向かって独り言言ってた。『今日は調子いいな、光が綺麗だ』って」
美月は知っていた。父がクラゲに話しかけることを。毎晩見ていた。でも、他の人もそれを見ていたということが、少しだけ嬉しかった。
「ありがとう」
「だから、ありがとうは俺に言うんじゃなくてだな——」
「いいから食べて。海老フライ冷める」
健太が海老フライを噛んだ。美月は冷凍コロッケを食べた。おいしくはなかった。でも、隣に誰かがいるだけで、味は少しだけましになった。
*
放課後。佐藤の車で水族館に寄った。
休館が続いていたが、生き物の世話は止められない。佐藤と若手の飼育スタッフ二人が、雄一の代わりに水槽を管理していた。
佐藤に頼んで、父のロッカーを開けてもらった。
「何探してるんだ」
「お父さんの作業メモ。水質管理の記録があるはず」
ロッカーの中は整然としていた。作業着が二着。長靴。タオル。棚の上に、クリアファイルが三つ。水質検査の記録、飼育マニュアル、業者の納品書控え。
業者の納品書控えを開いた。
試薬の納品リストが時系列で綴じてある。pH試薬、溶存酸素計のセンサー、塩化ナトリウム。どれも通常の水質管理に使うものだ。
最後のページの手前で、手が止まった。
セレンテラジンの納品書。五月と七月、二回。「Ca²⁺調整済」と赤字でスタンプが押してある。
美月はその文字を見つめた。
セレンテラジンは、オワンクラゲの発光に関わる物質だ。カルシウムイオンと結合すると発光反応が起きる。父が以前説明してくれた。「クラゲの光は、二つの段階がある。まずGFPが紫外線で励起する。それとは別に、セレンテラジンがカルシウムイオンに反応して光る。二つの光が合わさって、あの緑色になるんだ」。
Ca²⁺調整済。カルシウムイオン濃度を調整した上で納品されたセレンテラジン。
普通の飼育には使う。研究用途にも使う。問題はない。
でも、美月の頭の中で、別の回路が繋がった。
小さなずれ。早い方向のずれ。照明では説明がつかないずれ。水質が変化したとき——カルシウムイオン濃度が変わったとき——発光パターンが変わる。
もし。
もし誰かが、夜間にカルシウムイオン濃度を変えていたら。
ノートを開いた。白紙のページ。三十八日目以降、何も書けなかった空白の先。
美月はペンを取って、ページの上部に四文字書いた。
「証明計画」
その下に、最初の一行を書き始めた。
「①お父さんのノートとわたしのノートを照合する」
手が震えていた。でも、字は震えなかった。ノートの上では、いつも事実だけを書く。事実は震えない。




