11話 逮捕
山田が意識を取り戻したのは、事件から五日目だった。
美月はそれを、佐藤からの電話で知った。佐藤は事件以来、毎日一度は電話をくれた。声は明るいままだったが、缶コーヒーを開ける音がしなくなっていた。
「山田が病院で警察の聴取を受けた。頭部の怪我は全治三週間。記憶が一部飛んでるらしい」
「何を覚えてるの」
「……全部はわからない。ただ、警察の動きが変わった」
「変わった?」
「今日の午後、もう一度お父さんを呼んでる。今までは『参考人』として聞いてたが、今度は——」
佐藤がそこで言葉を切った。
「今度は何」
「美月ちゃん。お父さんが帰ってきたら、ちゃんと話を聞いてやってくれ」
電話が切れた。
*
父は、帰ってこなかった。
十七時を過ぎ、十八時を過ぎ、十九時になっても帰らなかった。夕食の支度をしようと思ったが、冷蔵庫を開ける気になれなかった。テーブルの上にノートを置いて、三十五日分のデータを見つめていた。見つめても何も変わらなかったが、他にできることがなかった。
二十時十分にインターホンが鳴った。
父ではなかった。私服の男が二人。一人が警察手帳を見せた。
「白石美月さんですか。お父さんの白石雄一さんについて、お話があります」
「お父さんは」
「署にいます。今日の聴取の中で、いくつか確認すべき事項が出てきまして。もう少し時間がかかります」
「いつ帰ってくるんですか」
二人が顔を見合わせた。
「……お父さんが帰ってきたら、本人から聞いてください」
何も教えてくれなかった。確認事項、と言った。帰ってきたら本人から、と言った。でも、二十時を過ぎて刑事が自宅に来る理由は一つしかない。
美月は玄関のドアを閉めて、鍵をかけた。
ノートのあるテーブルに戻った。座って、立ち上がって、また座った。
*
翌朝、佐藤が迎えに来た。
車の中で、佐藤が言った。
「山田の証言が出た」
美月は助手席でシートベルトを握りしめていた。
「山田は『暗くてよく見えなかった』と言ったそうだ。ただ——」
「ただ?」
「『作業着を着た男と揉み合いになった。相手は施設の人間だった』と。それ以上の特定はできないと」
「作業着なんて、職員ならみんな着てる」
「そうだ。でも、事件当夜に館内にいた可能性のある職員で、施錠の記録がある人間は——」
「お父さんだけ」
「……ああ」
佐藤がハンドルを握る手に力が入るのが見えた。
「二十二時十五分に施錠したってことは、その時間まで館内にいたってことだ。山田が襲われたのは二十二時頃と推定されてる。時間が合ってしまう」
「お父さんは施錠して帰っただけでしょ。施錠前に山田がバックヤードにいたなんて知らなかったはず——」
「俺もそう思う。でも、警察はそうは見てない」
車が水族館の前を通り過ぎた。まだ休館中。シャッターが降りている。駐車場にパトカーはもうなかったが、正面入口に立入禁止のテープが残っていた。
「どこに行くの」
「警察署。お父さんに会える手続きをしてある」
佐藤がウインカーを出して右に曲がった。朝の道は空いていた。八月の陽射しがフロントガラスを白く照らしている。いつもなら海水浴に向かう車で混む道が、今日は静かだった。
「佐藤さん」
「ん」
「お父さんは逮捕されるの」
佐藤がバックミラーを見た。美月の目を見たのではない。何かを確認しているふりをしただけだった。
「俺にはわからない。ただ、状況が厳しいのは確かだ」
*
警察署のロビーで、美月は一時間待った。プラスチックの椅子に座って、ノートを膝の上に置いていた。開かなかった。開いてデータを見れば落ち着くかもしれないと思ったが、手が動かなかった。
佐藤が隣にいた。何も言わなかった。自販機でコーヒーを買ったが、一口も飲まなかった。缶の表面に水滴がついて、それが佐藤の指を伝って落ちた。佐藤はそれを拭いもしなかった。
ロビーにはもう一組、別の家族がいた。母親と、美月より少し年上の女の子。二人とも黙って座っていた。こういう場所に来る人は、みんな黙っているのだと美月は思った。
廊下の奥からドアが開く音がした。
父が出てきた。
両手が後ろにあった。手錠の金属音が、ロビーの空気を割った。
美月は立ち上がった。ノートが膝から落ちた。拾わなかった。
父の隣に刑事が二人いた。父はまっすぐ前を見ていた。顔は昨日と同じだった。疲れてはいたが、崩れてはいなかった。
美月と目が合った。
父が足を止めた。刑事が促したが、父は動かなかった。
「美月」
「お父さん」
「やってない」
それだけ言った。短く、硬く、まっすぐな声だった。会議のとき、正しいと思うことを言うときの声。
美月は頷いた。声が出なかった。
父がもう一言だけ言った。
「クラゲの世話を頼む」
刑事が父の肩に手を置いた。父は振り返らずに、廊下の奥に歩いていった。足音が遠ざかる。革靴ではなかった。スニーカーの柔らかい音。いつもの通勤靴。
ドアが閉まった。
足音が消えた。
美月はロビーに立ったまま、閉じたドアを見ていた。
佐藤が後ろで何か言った。聞こえなかった。
足元にノートが落ちている。表紙が上を向いている。「自由研究ノート——クラゲの光の観察記録」。その下に、美月の字で小さく書いてある。
「——と、わからないことの記録」
美月はしゃがんで、ノートを拾った。両手で持った。
泣かなかった。
泣いている場合ではなかった。父は「やってない」と言った。父の声は、嘘をつくときの声ではなかった。三十五日間、毎晩一緒にクラゲを見てきた父の声。
やってない。なら、証明しなければならない。
誰が。
美月は自分の手の中のノートを見下ろした。
三十五日分の記録。事実だけの記録。一度も嘘を書かなかったノート。
——これが、証拠になる。
美月はまだ、その方法を知らなかった。でも、ノートを持っていた。それだけが、今の美月にあるすべてだった。




