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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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10話 容疑者

 事件から三日が経った。水族館は臨時休館のまま再開の目処が立っていない。

 美月は自宅にいた。三十六日目、三十七日目、三十八日目の記録は空白だった。水族館に入れない以上、記録のしようがない。ノートを開くと、三十五日目の「特になし」の次に白紙が続いている。白紙を見るのが嫌で、ノートを閉じた。

 父は毎日、警察に呼ばれていた。朝出て、夕方に帰ってくる。帰ってくると、何も言わずに台所に立つ。夕食を作る手つきはいつもと同じだが、味が少し濃くなっていた。疲れると味付けが濃くなるのは、母がいた頃から変わらない癖だった。

「お父さん。警察に何を聞かれてるの」

「事実確認だ。当日の行動と、施設の管理体制」

「事実確認だけ?」

 父は包丁の手を止めなかった。

「……事実確認だ」

 同じ言葉を繰り返すとき、父は何かを隠している。美月はそれも知っていた。


   *


 四日目に、佐藤から電話があった。

「美月ちゃん。お父さん、家にいる?」

「今日も警察に行ってる」

「そうか。……あのさ、俺が聞いた話、伝えていいかわからないんだけど」

「言って」

 佐藤が少し黙った。缶コーヒーを開ける音がした。

「警察がな、循環弁から指紋を採取した。お父さんの指紋が出た」

「当たり前でしょ。お父さんは飼育課長だよ。弁を触るのは仕事」

「そうだ。俺もそう思う。でも、警察は『事件当日の夜に触った可能性がある』って言ってるらしい。弁の表面に残った指紋の重なり方から、最後に触ったのが主任だと」

「弁を戻したのがお父さんだから、最後の指紋がお父さんなのは当然じゃん」

「……そうなんだけどな」

 佐藤の声が沈んだ。当然の反論が、当然のものとして受け入れられていない。何かがおかしい。

「佐藤さん。他にもあるの」

「ある」

 佐藤が深呼吸した。

「事件の二週間前に、お父さんと山田が水族館の前で口論してるのを、近所の住民が見てたらしい」

「口論?」

「大声で言い合ってた、と。内容までは聞き取れなかったらしいが、お父さんの方が先に声を荒げたと」

 美月は記憶を辿った。二週間前。七月末。LUNA手動運用が始まった直後。父の機嫌が悪かった時期だ。月末の金曜日——第4話の夜。

「お父さんが山田さんと会ってたなんて、知らなかった」

「俺も知らなかった。水族館に出入りしてた業者だから、顔を合わせること自体はおかしくない。ただ——」

「ただ?」

「口論の内容が問題になってる。お父さんは『納入品の品質について意見が食い違った』と説明してるらしい。でも、目撃者は『金の話をしていた』と言ってる」

 金。

 美月の頭の中で、何かが引っかかった。水族館の赤字。二千四百万。森川の手動運用提案。経費の問題。金は、この水族館のどこにでも絡んでいる。

「もう一つある」

 佐藤の声がさらに低くなった。

「バックヤードの通路で、封筒が見つかった。山田が倒れてた場所の近くに落ちてた。中に現金が入ってた。で、封筒の中に備品の発注伝票も入っていて——お父さんの署名があった」

 美月は何も言えなかった。

「発注伝票は、濾過フィルターの交換部品だ。お父さんが発注者として署名して、経理の森川さんに回したものらしい。その伝票が、現金の入った封筒と一緒にバックヤードの床に落ちてた」

 封筒。父の署名。現金。伝票に飼育課長が署名するのは通常の業務だ。でも、なぜその伝票が現金と一緒に現場にあるのか。

 でも、それが事件現場に現金と一緒に落ちていたという事実は、説明だけでは消せない。

「警察は、その現金が山田への支払いだった可能性を見てるらしい。で、伝票にお父さんの署名があるから——」

「お父さんが金を渡す側にいたって疑ってるってこと?」

「……そういうことになる」

「美月ちゃん。俺はお前のお父さんを信じてる。あの人がそんなことをする人間じゃないのは、十年一緒に働いてきた俺が一番知ってる」

「……うん」

「でも、状況証拠がな。指紋。口論の目撃。封筒。全部がお父さんを指してる」

「お父さんはやってない」

「わかってる」

「じゃあ、誰がやったの」

 佐藤は答えなかった。


   *


 その夜、父が帰ってきた。

 いつもより遅かった。二十一時を過ぎていた。台所に立たず、リビングのソファに座って天井を見ていた。美月は冷蔵庫からお茶を出して、テーブルに置いた。

「お父さん。封筒のこと、聞いた」

 父の体が固まった。

「佐藤さんから」

「……そうか」

「お父さんの署名が入った伝票が、現金と一緒に見つかったって。本当?」

 父は天井から目を下ろして、美月を見た。

「本当だ。濾過フィルターの発注伝票だ。俺が署名して、森川さんに経理処理を依頼した。先月の話だ」

「じゃあ、封筒は森川さんのもの?」

「わからない。伝票を渡した後のことは、経理の管轄だ。封筒に入れたのが誰で、なぜあの場所にあったのかは、俺にはわからない」

「現金は」

「俺の金じゃない。それだけは確かだ」

 美月はお茶に手をつけなかった。父もつけなかった。

 父が知っているのは、自分が伝票に署名したという事実だけ。封筒も現金も、父の手を離れた後の話だ。でも、警察にはそう見えない。署名と現金が同じ封筒に入っていれば、繋がりを疑うのが当然だろう。

「お父さん。森川さんが封筒を別の目的で——」

「美月」

 父の声が硬くなった。あの日、水族館で「帰れ」と言ったときと同じ声だった。

「推測は言うな。お前は事実だけを記録する人間だ。封筒が俺の字だったのは事実。中に金が入っていたのも事実。それ以上のことを、今の段階で口にするな」

 美月は唇を噛んだ。

 父の言うことはわかる。わかるが、この状況は「事実の記録」だけでは動かない。誰かが事実を組み立てて、声を上げなければ——。

「お父さん」

「なんだ」

「お父さんの正直さは、知ってる。でも——正直な人の周りには、その正直さを利用できる人がいる」

 父が息を吸った。何か言おうとして、言わなかった。

 お茶が冷めていった。エアコンの音だけがリビングに響いていた。外は暗い。水族館がある方角の空は、いつもなら建物の灯りが見える。今夜は何も見えなかった。休館中だから、誰もいない。照明も点いていない。

 クラゲは暗い水槽の中で、誰にも見られずに浮かんでいるのだろう。光っているのか、光っていないのかも、今はわからない。

 美月は自分の部屋に戻って、ノートを開いた。三十五日目の「特になし」の隣、三十六日目の欄に、初めてペンを入れた。


 「8/12(金)。記録なし(臨時休館)。バックヤードで事件。搬入口ガラス破損、循環弁逆位置、山田氏負傷。お父さんが第一発見者」


 事実だけを書いた。解釈は書かなかった。

 でも、次の行に書きたい言葉が一つだけあった。書かなかった。書いたら、事実ではなく祈りになってしまうから。

 ——お父さんはやってない。

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