第三十二話【心の傷に向き合って】(一)
直接的な表現はありませんが、体調不良と震災の描写があります。
苦手な方はご注意下さい。
それは、明日香が杏に戦い方の教えを乞うてすぐの事だった。
空調が良く効いていて快適な埼玉支部の休憩室のパイプ椅子の上で、明日香は膝を抱えてうずくまっていた。普段なら行儀を考えて進んでしない体勢だが、そんな事を考える余裕は今の明日香には無かった。
杏が入ってきても顔をあげず、何かを耐えるように膝を抱える手に力がこもる。そんな明日香を見ても杏は特段気にすることなく、明日香と同じテーブルの向かいの席についた。
「……すみません、私から頼んだことなのに」
「構わん。逆に今で良かったじゃないか。あいつらの前でそんな弱った姿、見せたくないだろう」
言い方はドライだがそこに冷たさは感じられない。杏が明日香の前に水の入ったペットボトルと錠剤を置いて、自身もスポーツ飲料の蓋を開けて口元に持っていく。目線を少しあげて錠剤を複雑な表情で見つめる明日香に、杏は少し首を傾げた。
「どうした?」
「……薬が必要になるの、初めてで……」
「体質が急に変わるのは、お前ぐらいの歳なら普通の事だ。一週間も痛みが続くようなら病院に連れていくが、まずはそれで様子を見とけ」
そう言いながら杏がペットボトル飲料を口に流し込む。その様子を見ながら明日香はぎこちなく足を降ろして身体を動かし、錠剤を口に含んだ。
それを水で流し込んだ頃に、誰かが何かを押しながら入ってくる。その人物を明日香が確認しようと青白い顔を上げた時、白髪混じりの初老の男性がにこやかな笑みを明日香に向けていた。
「医学的な根拠はございませんが、温かいものを取り入れると症状が和らぐと聞きます。宜しければどうぞ」
穏やかな口調でそう言いながら、男性は花模様があしらわれたティーカップを明日香の前に置く。同じ柄のティーポットを傾けると、注ぎ口から綺麗な赤茶色の液体がカップの中に注ぎ込まれた。
「滝本は紅茶を入れるのが上手いんだ。美味しいぞ」
同じように紅茶が入れられたカップを持ち上げ、縁に口をよせ傾けながら杏が話す。それにならって明日香もゆっくりとカップを持ち上げて紅茶を一口含むと、鼻から紅茶の良い香りが抜けて口の中に広がった。
「……ありがとうございます。滝本支部長」
少しだけ笑みを浮かべて明日香は男性、埼玉支部の支部長である滝本弘にお礼を言うと、滝本は優しく微笑んでワゴンを押して休憩室を後にした。
紅茶がカップの半分くらいまでになった時、杏が口を開いた。
「……私は、最初から跡取りではなかったんだ」
え? と明日香が杏を見ると、杏が少しだけ微笑を浮かべながら話を続ける。
「歳の離れた兄がいてな。小さい頃は、よく一緒に遊んでくれた。地頭も良く、上に立つ器量のある人だった。兄が跡を継げば我が家は安泰。誰もがそう思っていた」
遠い目をしながら話す杏に、明日香は少しだけ違和感を覚える。兄の話をする杏の目が、懐かしむ色を含んでいたからだ。
「どうして杏さんが跡を継ぐことに……?」
考える前に、気付いたら疑問が口から出ていた。杏が少しだけ目線を下に移し、しかしすぐに上げ明日香を真っ直ぐに見つめた。
「……十年以上前に、大きな震災があったのは覚えているか?」
明日香はこくりと頷く。自分が住んで居た地域は震源地から離れた所だったので大きな被害はなかったが、それでもあそこまで大きな地震を体験したのは後にも先にもあの時だけだった。当時の明日香はまだ幼く沙夜も産まれてない頃の話だが、世間の空気に飲まれ、しばらく家の中が暗かったのは何となく覚えている。
「兄はその時、視察で震源地の近くにいた。そこで、津波に巻き込まれたんだ」
明日香は息を飲んだ。あの地震は歴史上もっとも大きくて震源地付近は津波の被害も尋常では無かった。その津波に巻き込まれたということは、その先は聞かなくても明日香は容易に分かってしまった。
「葬儀が終わった後、私に本宮家の跡を継ぐようにと、祖父が唐突に言ったんだ。確かに兄がいなくなった以上、跡を継ぐ人間は私しか居ない。それでも私には寝耳に水だった」
感情を込めずに淡々と事実だけを話す杏の言葉を、明日香は遮ることなく静かに耳を傾けた。
「その日からありとあらゆる事を叩き込まれた。逃げ出したくなる程の重圧に耐えきれなくなった私は、ビルの屋上から飛び降りようとしたんだ。もっとも、それは側近の執事に止められて未遂で終わったんだがな」
明日香は先日、自身が埼玉支部の屋上から飛び降りようとしたのを杏に止められたことを思い出す。あの時小さく呟いたのはこの事だったのだろうか。だから杏は、自分が同じ事をしようとすることが分かったのかもしれない。
「その時に呪いに近い言葉をかけられてな。おかげで死にそびれた。だから私は今、ここにいる」
「……呪いって、なんて言われたんですか?」
「逝くなら順番を守ってからでも遅くないから、祖父と両親と、自分を見届けてからにしてくれと言われた。つまり暗に死ぬなと言われたんだ」
杏が苦笑いをする。直接死ぬなと、死ぬことを止められた訳ではないのに、又聞きの明日香でもその言葉の重さが感じ取れた。
「その後ロストの騒動に巻き込まれて、あとはお前が知っての通りだ。私は家の重圧から少しでも逃れたくて、色々こじつけた理由を並べて祖父を説得してセイバーとなり、今の立ち位置を手に入れたんだ」
「……どうして私に、この話を……?」
明日香がおずおずと疑問を口にした時、杏は遠い目をしながらも柔らかく微笑んだ。
「今のお前が、何となく昔の私と重なったからだと思う。多分私も、誰かに聞いて欲しかったんだ」
* * *
杏は明日香に、自身の過去を話したことを思い出す。
いつの間にか忌々しい過去の記憶の映像は頭から綺麗に消え去り、優しかった兄の笑顔がいくつも浮かび上がっていた。
明日香が兄を思い出させてくれたのだ。
明日香が弾き飛ばした水色の物体を、グラサイトがもう一発、二発と撃ち込んでくる。それを明日香は的確に矢で射抜き防御する。杏との修行の成果が出ているようだ。
だが一発射抜くことが出来ずあさっての方向に弾き飛んだその物体を、ハンマーを持った小人が明日香に向かって打ち返す。
死角からの攻撃でもあって避けきれ無かった明日香の足にそれが命中し、明日香が床に叩きつけられ土煙が舞う。
それが収まった時明日香の足は、水色のガラスの塊に覆われていて動けなくなっていた。
「…………っ!?」
舞踏会を軽やかに踊る靴に似たそれが、今は明日香の足に鉛のように重くのしかかって彼女の動きを封じ込んでいる。どうにかして足を動かそうと明日香が悪戦苦闘する上空で、かぼちゃの形のロストが口を大きく開ける。
それが明日香を吸い込もうとしてるのが分かった時、杏はロストに向かってバズーカを放った。
バズーカの爆風でロストの起動がずれ、ぐるぐるとその場で回転したロストが止まった時、ロストの視線の先には杏がいた。
「杏さん!?」
明日香が切羽詰まった顔で叫んだ時、杏の身体が宙に浮き、抵抗する間もなくロストの口の中に吸い込まれて行った。
視界が明るくなり、杏が辺りを見回すとそこは、煌びやかな大広間だった。
自分で思っていた以上に精神的にダメージを負っていたのか、気付いたらバズーカがコアに戻っていた。それを確認した杏が苦虫を噛み潰したような顔をしたその時だった。
ざわざわと目の前から無数のネズミが現れる。
空から光の粉が振りそれらにかけられた時、ネズミが白い馬に変化する。
一、二頭だけなら可愛いものだが、何十頭もの馬がひしめき合っている姿は、まるでヌーの大群だった。
「杏……」
馬の大群の中から杏の名を呼ぶ声がする。
その方向をじっと見つめていると、馬たちの群れの中から一人の男性が現れる。
その男性は、杏がよく知っている男性だった。
「また会えて嬉しいよ。一緒に踊らないかい?」
煌びやかな装飾を身にまとったかつての兄が、杏に向かって手を差し伸べる。しかし杏は、その手を取らなかった。
それどころかふるふると肩が震え、拳を握りしめる。眉間に皺を寄せた杏の目には、怒りが灯っていた。
「……こんな事で私を陥れたつもりか…………?」
杏の口角は上がっているがその目は全く笑っていない。
「舐められたもんだな……貴様は私の兄ではない」
目の前にいる兄が、グラサイトの幻影で作られていることぐらいすぐに分かった。おおかた兄の幻影を餌にして馬の大群に杏を襲わせる算段だったのだろう。
だが、杏は騙されなかった。
兄がどこにいるのか、杏は最初から知っていたからだ。
「私の兄は、ここにいる!!」
自身のコアを胸に掲げ握りしめながら、杏は叫ぶ。
兄の幻影が馬の大群に消され、杏に目掛けて突進してきた次の瞬間、
(力を貸してくれ、兄さん!)
杏の手の中で、コアが再び輝き始めた。
今年の冬、親戚が亡くなりました。
年齢的に何があってもおかしくない歳ではありました。
しかしその人には、もうすぐ百歳になるぐらいご高齢の両親がまだ二人とも健在でした。
どんな歳になっても子どもを見送りたい親はいない。
そう思って生まれたのがこの言葉です。
……話は変わるのですが、明日香ってこんなコンディション状態で杏の特訓受けてたんですね。
杏の特訓はキノの旅の師匠のイメージで考えてました。
こんな状態で和真も音を上げる特訓受けてそれにある程度適応出来るようになってる。今思うと普通に化け物レベルの成長してるんですね。
多分自分が同じ状況になってたら一分も経たずにギブアップしてます。




