誕生日のケーキ
自宅のマンションが見える頃には、貴紘の歩みは既に駆け足となっていた。エントランスを抜け、エレベーターに乗ってすぐに心の中でララに呼び掛ける。
早くララに言いたい。――"ありがとう"って。
だけど、7階で止まったエレベーターから降りてもララの声は聞こえてこない。とうとう部屋についてしまった。玄関の鍵を開けてすぐ、声に出して呼んだ。
「ララ?」
頭の中は静まり返っている。
「寝てるのか」
答えもないのに一人で呟く。こんな事はよくあった。大体彼女はいつも自分勝手で、こちらが呼び掛けなくても気分で出てくるし、なんなら勝手に体の権利を交代させられることだってある。そう、こんなことはよくあることだった。
だけどなぜだろう。こんなに胸騒ぎがするのは。
貴紘は自分の右手を見つめた。今日、ララが握ってくれた。すごく心強くて勇気をもらえた。ララに憑かれてから約三ヶ月、それは初めての出来事だった。だけどいつも自分の中にいるララが、自分に触れられることなんてできるのだろうか? もしかしたら錯覚だったのかもしれない。だって、自分の中からララが出てしまっていたら、それはもう成仏したって事じゃないのか。
貴紘は嫌な予感がして、叫ぶようにララを呼んだ。
「ララ!? ……返事しろよ!」
しばらく待っても、やっぱり何も聞こえてこない。なんで? いつもとなにかが違う。どうしてこんなに胸がざわめくのだろう。貴紘はただリビングのテーブルの前で立ち尽くしていた。
『……こんにちは』
すると、小さな声でお昼の挨拶が聞こえた。
「なんだよそれ……」
思わず安堵のため息が漏れる。心臓から熱い血液が必要以上に送り出されていった。
「あんまりビックリさせんなよ! 俺てっきりお前が……まあいいや。こんなこと言いたいんじゃなくて……」
こめかみに汗が流れたのを感じ、貴紘はエアコンのスイッチをつけた。
「今日は、その……ありがとう。お前のおかげで、母さんとうまく話せたから……」
『違うよ。私のお陰なんかじゃない。あんたが勇気を出したから。自分でちゃんと、あんたのママと向き合った結果だよ』
心なしか、ララの声がいつもより元気がないように感じる。
「明日さ、お前の好きなもん買ってやるから! なんでもいいよ。何がいい?」
きっと喜んでくれる。元気がないララなんて、こっちも調子が狂ってしまう。
『これからも、ママと仲良くするんだよ。それに、おばあちゃんのことも大切にしてあげて』
その言葉に、貴紘は一瞬耳を疑った。
「え……? なんだよ、それ」
『光一と仲良くね。それにダイアナちゃんの事も泣かせちゃダメよ』
「何いってんの? お前……さっきから」
言ってることがおかしい。これじゃ、まるで……もう会わない人への挨拶みたいじゃないか。
『大阪行くんでしょ? 迷子にならないように。お財布も落とさないように気を付けて』
「は? お前も行くんじゃん。俺と一緒に! 財布落とすなって……落としたらお前が教えてくれたらいいだろ!?」
エアコンをつけたはずなのに汗が止まらない。濡れた背中に張り付くTシャツが、とてつもなく気持ち悪く感じた。
「何、お前……それ、もうどっか行くみたいな言い方……」
『ごめん、そうなの。私、もう行かなきゃ……』
「は? ……この前俺が、お前にキレたから? それで俺の事まだムカついてんの?」
目の前に広がって見えるこの部屋は、見慣れた自分の家のリビングなのに。頭を殴られたみたいなショックで、まるで視覚が脳に伝達されてこない。何も考えられない、理解できない。
ララの言ってることが、まるでわからない。
『違うよ。そんなこと全然怒ってない。時間が、来たんだ。……ごめんね』
「ごめんって……何が? 何それ……全然わかんない。お前おかしいよ。俺の誕生日のケーキ食べるって約束したじゃん。2月だよ? あと7ヶ月もあるのに……! それにまだ全然食ってないおやつあるけど!? 何勝手に一人で満足してんの?」
なんで? せっかく幸せな気分で帰ってきたのに、今度はお前がそんなこと言うの? 貴紘は突然の事に混乱して、テーブルを強く叩きつけた。
『もう、私、大丈夫なの……』
「ふざけんな!!」
貴紘は大声で叫ぶと、誰もいない正面を睨み付けた。自分でもどうしていいのかわからないほど、興奮している。
「俺は大丈夫じゃねーんだよ! 何なの……お前、勝手すぎるじゃん。勝手に俺に取り憑いて、そーやって勝手に出ていくんだ」
『それはごめん……けど、あんただって、ずっとこんなのに取り憑かれてるわけにもいかないでしょ?』
貴紘の心臓はもう破裂しそうだった。どうしてこんなに嫌な音をたてるんだろう。
「は? ずっと一緒に居ればいいじゃねーかよ! 別になんも困らねーし……だって……俺が光一と友達になれたのも、直也が死ななかったのも……全部お前のお陰じゃん! お前がいなかったら、俺は母さん達と気まずいままだったし……今みたいに前向きな気分で夏休みを迎えられなかったよ! ってかそれよりまず先に、……俺の事は? もう会えなくなるんだぞ!? 何か言うことねーのかよ!?」
『あんたにはまだ未来があるよ。死んでる私と違って……だから、私の事なんてすぐ忘れる』
「お前バカじゃん!」
貴紘は怒った。何度か子供だからとバカにされた気がしていたが、今回ばかりは許せない。大体いつも大人は、子供の事を舐めすぎている。
「俺がガキだから……? すぐ忘れると思ってんのか!? バカにすんな!! 忘れるワケねーじゃん! なんでそんなこと言うの? お前がいなくなったら……誰が代わりに俺の嫌いなケーキ食べんの? 誰が俺の背中押してくれんだよ! ……ってか……お前さっきからなんでそんな冷静なワケ、俺だけかよ、……寂しいのは」
相手の心に響いていないのなら、これは頭のおかしい人の独り言だ。こんなに意味のない独り言を言ったのは初めてだ。それに、こんなに泣いたのも。後から後から流れてくる涙は悔しさと、悲しさ、それに、寂しさが詰まっている。
肩が震えるほど泣いた貴紘は、最後に情けなくも、ララに懇願した。
「……行くなんて言うなよ。俺イヤだ、まだお前と一緒にいたい……。好きなときに体を貸してやる、お前の好きなもの、なんでも食べさせてやるから」
しばらく沈黙を守っていたララが、堪えきれないように声を漏らした。その声は初めて聞くような声で――確かに彼女は泣いていた。
『……私だって寂しいよ。ずっとあんたを見守っていたい……でも、ダメなんだもん。もう、死んでるんだ。最後の未練果たしたら、私はここから消えちゃう。決まりなの……ごめんね、勝手な幽霊で』
「……まったくその通りだよ」
最後の最後で告げられたララの気持ちは、貴紘を一度に大人しくさせた。だけど彼の心は悲しいまま。
それでもララの寂しげな様子が、徐々に貴紘の諦めの感情を誘った。
『……嫌いなケーキはママやダイアナちゃんが食べてくれるよ。立ち止まったら、大切な友達が背中を押してくれる。それにあんたは勇気を持った。自分の力だって、たまには信じてあげて』
全部、ララがくれたものだ。
「俺、お前にもらってばかりだ。こっちからは何にもしてやってない。……お前の最後の未練って何なの」
『おいしいお菓子、たくさんもらったよ。それに私にとっては、あんたと一緒に過ごせた時間が全て大切だった。……最後のお願い聞いてくれる?』
聞かなかったらここに居てくれるんだろうか? 貴紘は全力でその願いを拒否したかった。だけど今にも消えそうなララの声をまだ聞いていたくて、貴紘は泣きながら頷いた。
『あんたの名前を呼んで、抱き締めたい』
「……了解」
そんな簡単なこと? 貴紘は不思議に思ったが、理由を尋ねることはしなかった。
彼は涙を拭いた。最後に見られる顔が情けない顔なんてイヤだと思ったから。
大きく息を吐くと目を閉じて、ララに呼ばれるのを待った。
『……貴紘』
その声を耳にした途端、全身に鳥肌が立った。それは恐怖でなく感動で。思えばララに名前を呼ばれたのは初めての事だった。
なぜこんな気持ちになるのか自分でもわからない。この人に名前を呼ばれることがとても嬉しくて幸せで、拭いたはずの涙が閉じた目から再び流れる。
『……貴紘、愛してる』
心臓が止まるかと思った。呼吸をするのを忘れるほど貴紘は驚く。あまりにも不自然なその言葉は、いとも容易く彼の心にごく自然に染み込んでいった。
体をきつく抱き締められた感覚があり、それはとても暖かくて幸せな感情に溢れていた。貴紘はその人が消えていくのを確かに腕に感じながら、ただ静かに時を待った。耳元で彼女の嗚咽がとてもリアルに聞こえて来て、貴紘は頭がどうにかなりそうだった。
とても、悲しい。
閉じた目の中まで真っ白に光って、その人の気配は消えてなくなる。貴紘の胸にはとてつもない虚無感が取り残されていた。
静かな部屋に時計の秒針の音だけが響いている。もう、どんなに声をかけても彼女は出てこない。当たり前だった日常が、こんなにあっけなく崩れ去る。……むしろこっちが日常の方だった。そう気付いたとき、貴紘の両目からはさらにとめどなく涙が流れた。
今朝は握られていたはずの右手を見つめながら、今はそこに何も感じないことをとても悲しく思う。
自分は長い間、夢でも見ていたのだろうか。だとしたらそれはとても悲しくて寂しくて、だけどすごく幸せな夢だ。




