かき氷
なんて素晴らしい幸せな日なんだろうと真織は思った。見つめるとぶっきらぼうに顔をそむける息子には、まだ小さな頃の面影が少しだけ残っている。初めて自分のことを「おかあさん」と呼んでくれた日、嬉しくて愛しくて涙が溢れた。それは、この小さな命を何があっても守ろうと、愛し抜こうと心に決めた瞬間だった。
「ばーちゃんに、俺のこと……ちゃんと紹介して欲しいんだけど」
少しだけ言いにくそうに言った貴紘を、真織は驚いて見つめた。
「……おばあちゃんって、思ってくれるの?」
「だって……そうじゃん。母さんの、母親なんだから」
「どうして? あの人、貴くん……あ、貴紘に……その、酷いこと言わなかった? 恥ずかしい話だけど私、とてもあの人に嫌われているから……」
貴紘は目が点になった。母さんは、もしかしたら自分が思ってるよりずっと間抜けなのかもしれない。当人同士より他人の方がその関係がよく見えると言った直也の言葉を今になって理解する。
「違うよ。ばーちゃんは、母さんのことが心配なんだ。母さんが俺を心配してくれたみたいに。俺……母さんに自分の気持ちを話せて良かった。だから母さん達も……仲直りしたら。俺が言うのもなんだけど」
そう言った貴紘の横顔を見て、真織はとても寂しくなった。自分が思っていたよりも、いや、もしかしたら自分よりもずっと、この子の方が大人なのかもしれない。そして、そうさせてしまったのは他でもない自分なのだと。
「ごめんなさい……」
「は。なんで謝んの」
その時、どんどんとドアを叩く音が聞こえた。病人を気遣う余裕のない激しい音だった。
「開けてくる」
貴紘は迷いなくドアの鍵を開けると、そこに立っている真理江を部屋の中へ招き入れる。彼女は眉間にシワを寄せたまま少し怒った顔で、ツカツカと真織のそばに行き丸椅子に腰かけた。
「お母さん……」
どう切り出していいか真織にはわからなかった。正人との結婚を反対されて以来、連絡も取らなかった。時折手紙が届いたが、意地をはって見ないで捨てた。やがて、引っ越しをしても届くその封筒に嫌悪すら覚えた。その手紙に何が書かれてあったのか、もう今は知るすべもない。真理江に聞く以外には。
「私はまだ52なんだからね。ばーちゃんなんて呼ぶんじゃないよッ! 真理江さんとお呼び」
先に沈黙を破ったのは真理江で、その台詞は明らかに貴紘に向けられたものだった。貴紘は突然のことと、予想もしない言葉を理解するのに時間を要し、しばらく固まった。
真織もただ目を丸くして自分の母の姿を見つめることしか出来ない。
真理江は廊下で二人の会話を聞いていた。
この親子の不器用な関係は、自分と真織の関係よりもよっぽど本当の親子らしく思える。自分が正しいと信じて厳しく育てた娘はやがて手を離れ、逃げていった。自分の本当の子供と出会って。
その子供への接し方がまるで自分とは違うことにも衝撃を受けた。そして思い知る――自分は間違っていたのだろうか。それでも、自分も確かにこの娘を愛していた。それは間違いのない事実だ。
「貴紘」
初めて会ったときとまるで変わらない威圧的な声で呼ばれる。それでもその険しい瞳に涙が滲んでいるのを、貴紘は意外に思った。何より名前を呼ばれたことが一番の予想外である。貴紘は大人しく数歩前に出て真理江に近寄った。
「悪かった。謝って済むことではないほど酷いことを言いました。……貴方は、れっきとした真織の息子よ。とても優しい子……ごめんなさい……」
「お母さん……」
真織の目からも涙が溢れた。長い間凝り固まっていた何かが、こんなにも簡単に解れていく。
二人の親子がすすり泣くのを前にして、貴紘は「なんだこの状況」とどんどん冷静になっていった。
「ババア二人の涙とか誰も得しないんだけど……」
その言葉に顔を上げた二人を見て、貴紘は笑ってしまった。動きとタイミングがまるで同じ、泣くときの眉の下がり方にすら遺伝子の繋がりを感じる。
「なんて生意気な子供なんだろうね!? こっちへ来なさい! その根性を叩き直してやるよ! 確か嫌いな食べ物は焼き肉だったね……今から食べに行くよッ! 泣いて謝っても許してやらないんだからな!」
言ってハンドバッグを持ち直した真理江は、貴紘の腕を引っ張りながら病室のドアを目指す。
「は!? 二人で飯食うとかまだハードル高い!」
「軟弱者! 8年も孫と会っていなかったんだ。話せることなんかいくらでもある!!」
「ちょ……イヤだ! 気まずい、離せよ真理江!」
「真理江さん、だ!」
騒がしく出ていった二人を見ながら、真織は考えていた。
――お母さん、昔から変わらない。なんて言うんだっけ、あの性格……。えーと、貴くんと同じ感じのあれ。
あ、そうそう! 天邪鬼だ。やだやだ、もう死語ね。
うふふと笑って真織は横になると、目を閉じた。忘れられない素敵な一日を、心に刻み付けながら。
□
真理江と昼食をとったあとは、デザートのかき氷まで食べた。甘味を目の前にした真理江のテンションの高さは、真織そのものだ。やっぱり親子だと貴紘は思った。そのあとふと徳重との約束を思い出し、慌てて時計を見る。もう12時を半分も過ぎてしまっていた。
「ヤベ、オッサンが来る時間だった。先に帰る、じゃあごちそうさま」
まだ半分以上かき氷が残っている真理江は知覚過敏と戦いながらゆっくりと消化している。これを待っていたら徳重の昼休みが終わってしまう。
貴紘は病院へ急いだ。
「オッサンごめん、先に飯食っちゃった」
「いいよいいよ、家まで送ろうか?」
「まだいるから。一人で帰れるから気にしないで」
「一人で夜過ごすの? 大丈夫? 怖くない? ボクのうちに泊まりに来てもいいよ」
どこまでも親切な男だ。貴紘は感心した上でその申し出を断った。一人で過ごすことにはもう慣れている。
徳重を見送ると、真織の病室に戻った。彼女は静かに「おかえり」と言った。
「おばあちゃんは?」
真織がドアを見ながら不思議そうに尋ねる。
「まだかき氷食べてる」
「そう……」
真織が少し緊張した面持ちでこれからなにかを話そうとしているのがわかった。それに気が付いた貴紘は、ただ真織が口を開くのを静かに待った。
「あのね、あなたの本当のお母さんの事だけど……」
貴紘は目を見開いた。その表情をまっすぐ見ながら、真織はゆっくりと言葉を続けた。
「貴くんのお母さんはね、」
「あー、いい。いい。俺、別に知りたくないから。今さら知ったってどうにもならねーし」
産みの親に対して何の感情も湧かない。未練もない。それだけ真織に対する情が勝っていたとも言える。当たり前だ。記憶もない母親より、8年もの間ずっと傍に居てくれた彼女の方を母親以外のなんだと呼ぶのだろう。
□
「ええッ!? お母さんが徳重さんと再婚すると思ってたの!?」
なぜ? どうして? と詰め寄る真織に、貴紘は拍子抜けした。
「え……。違うの?」
「そんなわけないじゃない。第一徳重さん、奥さんいるのよ。結婚してるわ」
「そーなの!? それはそれでビビる……。いやでも普通既婚者が他の女にあんなケーキ渡すかな」
真織はケラケラと笑いだした。貴くんたら深読みしすぎなんだから。と言って、その後暫く笑い続けた。
「引っ越すときにね、貴くんが昔使ってたバギーやおもちゃをたくさん譲ったのよ。使ってないのが山ほどあったから。徳重さん、そのころ赤ちゃんが産まれてね。それのお礼をしてくださったのよ。しかもたぶんあれは貴くんに食べてもらいたかったはずだよ。貴くんが入院していたとき、ケーキがないって怒られたって言ってたから」
「別にケーキが食べたくて怒った訳じゃねーし……」
でも、おかしい。徳重の、母さんを見る目は明らかに明吉と同じ目だったはずだ。
「やだ貴くん、そんなことどうしてわかるの? まだまだ修行が足りないわね。徳重さんは、誰にだってあんな感じよ。人懐っこいのよあの人」
貴紘は真織のその言葉を疑った。
「けど、今日だってわざわざ俺を迎えに来たり……同僚の域を越えてるだろ、フツーに」
「そうだとしても、たぶん徳重さんが好きなのはお母さんじゃなくて、あなたの方よ。徳重さん、小さい男の子が好きなのよ」
「……は? それさらにヤベー奴じゃん……」
貴紘は戦慄した。今朝だけでも思い当たる節があった、記憶から甦る。
真織はお腹を押さえて死ぬほど笑っている。
何がそんなにおかしいんだ。自分の息子が不道徳な目に遇っていたかもしれないのに。貴紘の表情は真織の楽しさとは反比例して、どんどん険しくなっていく。
「そうじゃなくて……! 徳重さんってオタクだから、貴くんくらいの少年のハマる漫画やゲームが好きなの。それでね、一緒に遊びたいって思ってるのよ。ほら、貴くんがやってるゲームも大好きなの。あの恐竜のゲーム」
それを聞いて貴紘は暫く頭痛がした。
じゃあ俺は勘違いしてこの数ヶ月、勝手にイライラしてたのか? だんだん恥ずかしくなってきて、自分の言動を思い出すのも嫌になってきた。
「そのとき聞いてくれれば良かったのに」
――聞けるか。
真織はおかしさをこらえきれない様子で笑い続けていた。貴紘は自分の頭の悪さにうんざりした。それに、ホントにめちゃくちゃ心底恥ずかしい。
面会時間が終了するということで、明日も来ることを告げ、家に帰った。
帰るときあんまり面白い気分ではなかったが、それでもここに来るときとは180度違った気持ちの今をとても幸せだと感じ、気分が明るくなった。
全部、ララのおかげだ。
明日はララの好きなものをいっぱいプレゼントしよう。もう大阪へ行くお金は残らなくなるけど、無礼講だ。これはじーちゃんに借金してでもやらなきゃいけないことだ。
男にはやらなきゃならない時がある。じーちゃんが言ったこと。それはきっと今なんだと、貴紘は思った。




