2-10.現実を知る者
2003年某月。
当時10歳だったリディ・マッケンジーは、経済的に裕福と貧乏どちらとも言えず、ごく平凡な両親と共に親子愛の溢れる幸せな生活を送っていた。
一人っ子で兄弟のいない彼ではあったが、毎日母親か父親が傍に居てくれたお陰であまり寂しさの感じない日々を送ってきた。
だがしかし、このような幸せな生活が長くは続かなかった。
アメリカ・ニューヨーク某所の大型ショッピングモール。
リディと彼の両親は買い物をしにショッピングモールへと足を運ばせていた。
店1つ1つに並ぶ靴や衣服を見るのが彼にとっての楽しみだった。
今回も同様に店をあちこち見て回っていると、いつの間にか空の色が夕焼けに染まりきっていた。
「もう遅くなってきたことだし帰ろうか」
父親は帰宅の提案をし、母親とリディはそれに賛同する形でショッピングモールの出口へと向かおうとする。
出口へ向かっている最中に母親はリディに訪ねる。
「リディ、あちこち見たけど欲しいものは無かったの?」
「うーん…無かったかなぁ……」
見たけども欲しいものは無かった。
そう思わせるような素振りで母親の言葉に答えた。彼の言葉を聞いた母親は息子の出来すぎた言動に何か違和感を感じているようだ。
なぜ10歳ぐらいの子供に欲しいものは無いのか。
それは、リディ自身が家の経済状況はあまり良くない状態であることを知っていることが理由だ。
当時の彼は親に無理をして欲しくなく、家族みんなで一緒にいられる時間があればいい。
ただ純粋にそれだけを思っていた。
それさえ叶っていれば、衣服や靴は最低限必要なものだけで良い。
今日も一日幸せな生活を送っていたマッケンジー家一行は、ショッピングモール出口まであと数メートルの位置にまで歩いてきていた。
その瞬間、大きな爆発音がモール内のどこかで聞こえ、敷地内に大きな揺れが発生した。
敷地内で買い物をしていた人々は音と揺れに戸惑い、地面に手をつけて体勢を整えていた。
マッケンジー家の両親も同様にリディを2人で守るように互いの腕を交えて、彼が転ばないように体を抑えていた。
爆発音は次第に近づいていき、揺れも大きくなっていく。
周りを見渡すと、建物を支える柱が次々と爆砕していき崩れていくのが見えた。
「嘘だろ……」
父の絶望を見たような呟き。
爆発音はやがて3人の元へと近づいていき、やがて一番近くにあった柱が爆発して崩れようとしていた。
これでは3人とも押し潰されてしまう。
リディは本能的に危険を察知した。柱が自分たちに倒れていく様を見つめながら、無意識に思った。
守らなきゃ。
では、どのようにして守るのか。
答えは簡単だ。3人を覆い囲むバリアのようなものがあればいい。
バリアのイメージ。それはヒーローアクションのアニメなどを見て分かっている。ヒーローが出来たんだ。僕にも同じようなことができるはず。
根拠の無い自信を持ちながら、手を空へと仰いで念じ始める。
「リディ、何をやってるの!? 手をどかしなさい!」
「嫌だ、僕が2人を守る」
「何を言っているんだ!?」
両親の制止を聞かず、リディは続けて念じ始める。
なんだろうこれ…
念じている間に感じた胸の奥から感じる何か。それは何かの意志を持っているようで彼の体から出ていこうとしているように思えた。
リディは無意識にそれを体の外へと出すように集中し始めるために目を閉じた。
その瞬間、大きな音を立てながら近くにあった柱がマッケンジー一家を襲うように倒れた。
一瞬死んだように思えた。
しかし、体の外へと何かが放出している感覚を感じる。
リディが目を開けた先には夕焼けに染まった空と透明に青白く光る何かが見えた。
何だろうこれ…僕が出しているのかな……
目の前に広がっているものの正体が分からない。
彼がそう思った瞬間、体にどっと疲れがのしかかってきて、リディは倒れ始めた。
そのまま地面へと体が倒れるかと思ったのだが、誰かがそれを支えているような感覚に見舞われた。
「おい…大丈…か」
体が疲労回復に集中しているためか、相手が何を言っているのかがあまり分からない。
そして自分が何をしていたのかが全く分からない。
「僕は何をしていたんだろう……」
リディは自分のやっていたことに疑問を抱きながら意識を失った。
◇ ◇
リディが目覚めると、目の前には白い天井が見えた。
ここはどこだろうと辺りを見渡すと両隣にはベッドがあり、左腕には点滴が刺さっている。近くには両親が腕を枕代わりにしながら、彼の寝ていたベッドで上半身だけ寝かせていた。
リディは自分が今いる場所は病院であることに気付いた。
なぜ自分は入院しているのだろう。
そう疑問を抱いた瞬間、母親の頭が動き出して顔を彼に向けた。
「う…ん…寝ちゃったのね……」
眠気眼を擦りながら目覚める。夜遅くまで息子が起きるのを待っていたのか、目の下には少しクマができていた。
「おはよう、母さん」
「えっ…リディ…? リディ、起きたのね!?」
息子の声が聞こえて、母親は大いに喜び始める。
「お父さんちょっと! リディが起きたわよ!」
「ぐぬぅ……う…リディ…? リディ、起きたのか!?」
とても騒がしい。
しかし、自分が起きたのを見てここまで喜んでくれるのはとても嬉しい限りだ。
リディは自身が両親に愛されていることを改めて実感した。
約1週間が経過し、マッケンジー家全員は病院から退院して自宅へと戻っていった。
不幸な事故から生還し、家族全員で奇跡的な社会復帰を果たして賞賛を浴びるように思っていたのだが、現実は違った。
病院から退院して2週間が経過した。
社会復帰を遂げたマッケンジー一家は、いつも通り朝起きて会社や学校に行ったりなどの普通の生活を送っていた。
リディは窮屈な生活から抜け出してようやく普通の生活に戻れるのかと外の世界に出るのが楽しみでしょうがなかった。
彼は母親が作る朝食を食べ、学校に向かおうと外に出ようと玄関に手を掛けた。
2週間ぐらいは家の中の篭りきりの生活で井の中の蛙状態だった彼の世界が外の世界の景色に彩られていく。
「痛っ!?」
玄関を開けた瞬間、額にズキッと何か尖ったものが当たったような痛みを感じた。
痛みを感じた部位を手で触れてみると、微かに傷が出来ていることに気付いた。
リディは「なんだろう」と思いながら傷口に触れた手を見るように視線を下に向けた。
「……」
手についていたのは血。そして、それより下にあったのは小さく尖った灰色の小石だ。
なぜ小石が飛んできたのか?
少年は疑問に思いながら顔を前に向けると―――
「化け物は外に出てくんじゃねーよ!」
「死ねよ!」
自分と年が同じくらいの子供たちが、心無き容赦の無い言葉を飛ばしていた。
言葉と同時に小石も次々に飛んでくる。
その様を見ている大人たちは見て見ぬ振りをして、非情な子供たちの行動を無かったことにしている。
リディは驚き、少し放心状態に陥っていた。
なぜ僕はこんな目にあっているのだろう……
理由も何も知らない彼からすればどういうことなのか、全く分からなかった。
ぼーっと突っ立っているリディを見かけた母親は、彼を家の中に勢いよく引き入れ、玄関の扉を閉じた。
何が起きているのだろうか……
なぜ僕は無理矢理家に戻されたのだろうか。
そう考えている内に、耳元から母親のすすり泣くような声が聞こえる。
「母さん、どうしたの?」
「何でもないわ……」
心配に思ったリディは母親を気遣うも、彼女は何も答えようとはしない。
本当に訳が分からなかった。
なぜ僕はこんな目にあって、母はこんなにも悲しんでいるのだろう。
リディは1人、得体の知れない現実というものに恐れを抱き始めた。
リディが子供たちからを化け物と呼ばれてから1週間が経過した。
彼がこれ以上精神的に傷つかないようにするために、母親の意向で家から出ることができなくなっていた。
いつもなら学校に行っている時間も家の中、親が買い物や仕事に出かけている間でも家の中。ずっと家の中にいるせいか、毎日が退屈で鬱々とした生活へと変貌していた。
親が帰ってきた時は嬉しさでいっぱいになっていたのだが、家の中に入った時に現れる疲れたような顔がとても気がかりで苦しい。
だが、2人はそんな疲れたような顔を出来るだけ表さないようにリディに構い続けた。その時だけ、ずっと1人だった間の寂しさが全て癒される瞬間だった。
外に出すことはできないリディを両親はできるだけ、一緒にいるようにしていた。
しかし、一時凌ぎのような生活は長くは続かなかった。
ある日、リディはいつも通り家の中を1人で過していた。
今日は見たいテレビが無くて暇になったので、小さいボールを使って遊んでいた。
大体の遊び方としては誰かとキャッチボールとかに使うのだが、彼の近くには一緒に遊べる子はいなかった。仕方なくボールを壁にぶつけ、バウンドしたボールをキャッチするような動作を繰り返す。
ポーン、ポーンと壁にぶつかる音が家中に響き渡り、1人でいる寂しさを助長していた。
リディは寂しさを気にしないようにルーチンワークでボールを投げては受け取りの繰り返しを行っていた。
連続して行っていると、壁にぶつかった瞬間のボールが予想外な方向へと飛んでいった。ボールは転がり続け、ベランダへと転がっていく。
ベランダは黒のカーテンによって外の景色が遮られており、綺麗に閉ざされているためか、べランダは閉まっているかのように思えた。
だが実際はそうでもなく、ベランダは閉まっていなかったのか、ボールは黒のカーテンの中へと呑み込まれていく。
「あっ…」
リディもボールが外に出て行ってしまったことに気付いて、外へとボールを取りに行こうと思ったのだが、親からの言いつけを思い出した。
家から出て行ってはいけない。
母親から強くそう言われている。
外に飛び出したボールを取ろうとすると言いつけを破ることになるけどどうしよう……
リディは考えたが、「少し外に出るだけだから」と我慢できなくなり、ベランダへと飛び出した。
「……」
久しぶりに踏み入れた外の世界は太陽の陽気に溢れていてとても暖かかった。
外ってこんなにも暖かいのになんで外に出ることを許してくれなかったんだろう。
確かに周囲の人たちから浴びせられる視線や非道な言葉の数々は苦しいけども、外に出るだけでも大きく違うと思う。
最初は両親が心配性で外に出すのをやめるようにさせられたと思っていたが、家に戻ろうとし振り返った瞬間、本当の理由が分かった。
「えっ!?」
化け物。
この街から出て行け。
死ね。
いなくなれ。
家のあちこちに黒や赤のスプレーで書いたような文字があった。おぞましく描かれている文字を見たリディは、自分たちが今までどのように言われているかを理解した。
「化け物だ! 退治しろ!」
家を囲む塀を上って覗いている近所の子供が、彼を見つけて大声で言った。大声は近所全体へと響き渡り、家の周りに集まり始める。
「あ…あぁ……」
化け物。その言葉を聞いて動揺するリディは逃げるように家の中へと戻っていった。
中に入るとベランダの鍵を閉めて、外の世界から離れるように自分の部屋の中へと逃げ込んだ。
ベッドに潜り込み、掛け布団で自分を守るようにくるまいながら座り始める。
何で? 何でなの?
何で僕はこんなに人から嫌われなきゃいけないんだ……
布団に顔を埋め、言葉にならないような声で泣き始めた。
なぜかこの世界は僕のことを嫌っている。
だからこそあのショッピングモールでの事件に巻き込まれたし、それを使ったとしても異能を見た人たちからは化け物と称されてしまう。
あまりにも残酷な世界をリディは恨み始めた。
外の世界が彼にとって残酷な物と知って数週間が経過した。リディはいつも通り自分の部屋の中で暇を持て余していた。
「暇だなぁ……」
テレビは仕事休みの父親に占領されているため見ることはできず、ボール遊びとか目の前にある物で遊ぶことはもう飽きてしまっている。遊びに飽きてしまったのは数日前ぐらいで、何もやることなく退屈な毎日を過す。
「お金は無いって言っているだろ!!!」
「それをどうにかするのがあなたでしょう! 早く他の地域に引っ越したいんだけど!!!!」
台所とリビングのある方向から両親の怒鳴り声が聞こえてきた。
最近の2人は何かと喧嘩が多い。
普段は軽めの言い争いだけで済むのだが、今日に限ってはそれで済まないような雰囲気を漂わせていた。
「も…我慢…界!」
普段のイメージからでは想像出来ないほど荒々しい母の声が聞こえた。
「仕方…だろ……」
それに続いて父の怒鳴り声も聞こえた。また何かあったのだろうか。
リディは怯えながら激しくなる2人の喧嘩を聞き続けた。
そしてついには皿が割れるような音が聞こえ始める。ここまで酷くなったのは初めてだ。
喧嘩はさらに激しさを増し、ドタバタとし始めている。数分後、慌しさも無くなり家の中は静寂に包まれた。何があったのだろうとリディは2人がいるであろうリビングへと足を進めた。
大喧嘩の後の静けさ。何があったのかがとても不安になる。
リビングまで数歩手前のところで、本能が「行くな!」と言っているかのように体が動かなくなった。
しかし、止まっているままでは何も進まない。
リディは意を決してリビングの中へと入っていった。
「えっ……」
目の前はソファーに背中を預けて倒れている父親と、血塗られた包丁を手に持つ母親の姿。
父親の胸辺りには赤い血で服が染まっており、意識が無いように見える。
「と…父さん!」
リディはすぐさま父の元へと駆け寄る。応急処置とか何も分からない当時の彼は目の前で倒れている父を見て動揺した。
「か…母さん! 父さんがいっぱい血出してるよ! どうしよう!」
リディは母親に救いを求めたが、彼女は何も答えなかった。
「ねぇ、母さん! 父さんが―――」
「リディ、もう…いいのよ。お父さんは私達が次に目指すところへと旅立ったのだから」
リディの救いを求める声は、母親の声によってかき消された。
「もういい」とはどういうこと? 父さんはどこに行ったの?
母親の言っている意味が分からなかった。最初は意味が分からなかったが、胸を刺された父は目の前で倒れている様を見ていると、リディは彼女の言いたいことを直感で理解した。
「ねぇ…母さんやめようよ……」
「あらぁ…母さんは勘の良い子は嫌いよ。そういう風に育てた覚えもないんだけどね」
母の目は焦点が合っていないような状態でとても怖い。右手には包丁を持っていることも含めてとても危なっかしい。
「さぁ、リディ…私と一緒にお父さんの元へ向かいましょう」
父の元へ―――すなわち一緒に死のうと提案されている。馬鹿げている。なぜ皆死ななきゃいけないのだろう。
リディは母の言っていることに危なさを感じた。
「母さん、そんなことやめようよ! 早く父さんを助けようよ!」
「もう無理なのよ!!!!」
彼は再び母に助けを求めるが、ヒステリアスに荒上げた彼女の声でかき消された。
母の顔は大声を出した後に項垂れた。
「…なた…の…せいよ…なた…の…せいよ…なた…の…せいよ…なた…の…せいよ…なた…の…せいよ」
「…?」
項垂れた顔から微かに呟きが聞こえる。
それは長い呪文詠唱または呪いやお経を唱えるように空白入れずに呟いているように聞こえる。
呟きは終わりを見せないまま続いていると、唐突に母の顔がリディの方へと向けられた。
「あなたのせいよ! あなたがそんな化け物みたいな力を持っているからこんなにも苦しいの! ねぇ分かる? いろんな人たちから文句を言われているあなたを守ろうとしている私達の気持ちが!!!!」
「どういう……こと?」
母親から漏れた言葉にリディは驚きを示した。
そんな彼の顔を見て、彼女は苛立ちながら続けて話し続ける。
「リディには分からないでしょうね。あなたを家の中に閉じ込めて周囲の人たちの文句が無くなると思ったら、今度は私達に非難がきた。化け物を殺せ、匿うなですって。リディを外に出したらさらに傷つくし、あいつらは何をやるかは分からない。だからずっと外に出したくなかったのよ!
そうしていても周りの人からはしつこくどうにかしろと言われ続けて嫌がらせまで受けているのよ?
お父さんに至れば、デスクは消されて仕事用の机も何もない状態で仕事をしろと言われてるのよ?
ここまで酷い仕打ちを受けてあなたを殺したいと思ったことが何度あったか分かる?」
顔を近くまで寄せられ、リディは身動きが取れなかった。
母からは今にでも殺しにかかりそうな雰囲気が出ていた。
「でも…リディは私の子供だから手放したくないの…だから殺したいと思っても殺せないの…」
寄せられた顔は引き、両手で顔を見せないようにしながら母は泣き始める。
感傷にくれている母を見てリディは殺されることは無いと思った瞬間、彼女は顔を隠していた両手をどかして彼を見つめた。
「だからリディ…一緒に死にましょう」
殺す気は無いのに一緒に死のうと提案してきた。
何を言っている。殺す気はないんでしょ?
リディは意味が分からず混乱した。
「なんで僕は死ななきゃいけないの?」
「お母さんとお父さんと一緒にいるためよ」
「母さん何もしないって言ったじゃん!?」
「何もしないんじゃない。殺さないだけ。私はリディを殺すんじゃないの…リディは私と一緒に死ぬの」
「意味が分からないよ……」
殺すんじゃない。一緒に死ぬだけ。
一緒に死ぬと言うことは最終的に一家心中を図ることを意味していた。
母は結局リディの死を望んでいることに気付いた。
「さぁ…私のところに来て」
「嫌だ!!!」
狂気に満ちた母から逃げるようにリディはリビングから飛び出した。
どこに逃げた方がいいのか。
外は彼を非難する者ばかりで味方なんていない。ましてや家の中であればもっと危険だ。
じゃあどうするか……
リディは考える間もなく、自分の部屋へと逃げ込んだ。
近くにある重いものを扉の前に移動させ、簡単なバリケードを作った。
「リディ開けなさい。母さんの言う事聞いて! 早く開けなさーい」
声色は普段の母だが、今の彼女が取る行動はとてもおかしい。
リディは母の声を塞ぐように布団で耳を塞いだ。
数分後、声が聞こえなくなって足音が遠ざかっていくような音が聞こえた。
諦めてくれたのかと思いバリケードをどかそうとすると、ドアを強く叩くような大きい音が聞こえた。
そしてついにはドアに小さな穴が開き、そこから母の目が見えた。
「待っててね。今からそっちに行くから」
リディはあまりの怖さに後ろへと退いたが、背にしている壁によってそれは憚れる。
母の声がまるで、これから子供を攫おうとしている悪魔のように聞こえた。
再び響き始める鈍器と木材がぶつかり合う音。
壊れて無くならず、母の気が変わるまで耐えてほしいとドアに込めて願いを込めた。
だが、それは叶わなかった。
「ダメじゃない…そんなところにいたら。お母さんに手間を掛けさせないで」
椅子を始めとして作られたバリケードは扉が破壊されると共に崩れた。
廊下とベッドの間を挟む物はなく、母は笑顔で右手に金槌、左手に包丁を持ってリディに近づいていく。
「来るなああああ!」
「嫌よ」
彼が制止の声を放つも全く聞いてくれない。
互いの距離があと数歩のところで、母は足を止めた。そして、左手に持っていた包丁を振りかざす。
「リディ、ちょっと痛いけど我慢してね。私もすぐに逝くから」
「嫌だあああああ!!」
包丁を振り下ろすと、何かが折れる音と共に母の頬に切り傷が生まれた。
「えっ……?」
目の前にいるリディを中心として透明な膜のような物が彼の周囲を唐突に展開していた。
包丁を見てみると綺麗に刃の部分だけが無くなっており、本来の機能を失っている。
「なんで!?」
母は包丁の刃がポッキリ折れてしまっていることに驚いた。
もう必要ないと感じたそれを部屋の隅に投げ、右手に持っていた金槌でリディを叩こうとした。
だがそれは、リディを多い囲む透明な膜のような物が彼への直撃を防いだ。
「なんであなたは死なないの? なんで! なんで!?」
自分の思い通りにいかず、母は金槌を彼に振り続けた。
最初はビクともしなかった膜もついにはヒビが入り始める。
これが割れてしまえば僕は死んでしまう。
「母さんやめてよ!!!」
生きて初めて力強く叫んだ瞬間、母の動きが止まった。
振り上げていた右腕はだらんと垂れ、ゆっくりと体が倒れていく。その時、リディは母の頭が吹き飛んでいたことに気付いた。
何があったんだ……
状況が分からず混乱する。ただ1つ予想できることは目の前に広がっている膜だ。
触るべきなのか、触らないべきなのかを悩んでいるうちに、膜の正体に覚えがあった。
「…この力のせいなのかな……」
約1ヶ月前に遭遇した地獄から生還した力。
それは魔力であるのだが、当時の彼はその言葉を知らなかった。
首の無くなった母だった物を前にして呆然にベッドにへたり込んでいると、外からパトカーの音が聞こえる。
車を近くに止めたような音が聞こえ、その後に玄関をノックする音が聞こえた。
おまわりさんかな……
一瞬そう考えたが、その時のリディは近づいてくる人を信じきれなかった。
家の中から何も反応が無いことを不審に思った警察官らしき人は仕方なく家の玄関を壊して入り込んだ。
リビングは胸に赤い血が染まった父の遺体がある。それを見たのか、下の階は少し騒々しくなった。
2人で中に入ってきているのか、1人は下でドタバタとしながらもう1人は階段を上る音が聞こえる。
そして足音は部屋に近づいてくるのが分かった。
「抵抗するな! 抵抗すれば―――」
1人の青年が銃を突きつけながら部屋の中に入ってくる。
彼が羽織っているベストには警察のマークが見えたので、目の前に居る男は警察官であることを証明した。
青年は正面にいる子供と、頭の無い女性の死体を見つけて困惑する。
「き、君…大丈夫なのか…?」
「おまわりさん、僕を傷つけないよね…?」
リディは無意識に青年に尋ねた。
「大丈夫。私は君を傷つける気は無いから」
リディの様子を見た青年は、穏やかな声で言った。
そうしてリディは警察に保護され、孤児院へと連れ出されることになった。
空から振り出す雨は、天涯孤独となった少年の心情を表すように盛大に降り出し、一日中止むことは無かった。




