87:突き落としと偽証(少年視点)
駆ける少年の前には『呪い』と、長い下りの階段。
(いける……!!)
『呪い』の黒髪に触れ、背中に手が届く──その瞬間。
隣の少女が『呪い』の腕を引いた。
「ラシェルちゃん!」
少年の手は空をきり、そして、捕まる。
(……!?!?)
くすんだ金色をした髪が頬に沿って流れる少女の拳が、彼の手首を固く掴んでいた。勢いあまって階段下へ落ちていきそうになる少年を引き戻す。
「あ──」
代わりに、バランスを崩した彼女が前へ出た。
少女の体が宙を踊る。
そこに足場はない──階段だ。
「ユノさん!」
『呪い』は目を見開いた。隠密の魔法が解け、突然姿を現した貴族の男子生徒に目を奪われながらも、『呪い』は平民のユノという少女に助けの手を伸ばす。しかし、届かない。
ふたりの指は惜しくもすれ違った。
「……」
『呪い』は少年の方に軽く目をやりながら、なんと、彼女も階段へと身を投げた。
(……!? まさか! いや、いいぞ! 落ちてくれるなら──)
ところが『呪い』は人間とは思えない不可解な挙動で、現在進行形で落下する少女の下へと潜り込んだ。
『呪い』はユノの体が硬い石の段差に触れる前に間へ入り、彼女を抱きしめる。
「は?!」
思わず声が出る。なんだ今の動きは。
そして、嫌な音が響いた。
『呪い』の体が激しく段々にぶつかる重い音と、服が破れる音、そして最後には出血しながらズルズルと肉を引きずるように滑り落ちて、踊り場で停止する音だ。
『呪い』はユノを庇い、下敷きになって落下したのだった。
「ラシェルちゃんッ!!」
ユノの悲鳴が響いた。
長い石段には赤い跡が続き、『呪い』の背中は服も皮も裂け、めくれて血まみれだった。
(そ、想定とは違ったが……目標通りだ。一カ所や二カ所の骨折じゃ済んでないぞ)
階段下で、回復魔法の光が見えた。
「《大煌極癒》」
それは予期したものより数段上の魔法だった。
(なっ⋯⋯? じょ、上位階魔法!? ウソだろあの平民、一年次ですでに二年の首席にも並ぶ回復魔法の腕を持ってるというのか!?)
少年は驚愕する。だが目的は達した。
体に怪我が残る、残るまいと『呪い』の精神には多大なる傷と恐怖を植えつけられたはずである。
(⋯⋯取りあえず、逃げよう)
去ろうとする少年。
「……っ? あれ?」
しかしすぐに自分の体の異常に気づく。
足が動かない。足だけでない。腕も、頭も、指の一本さえ動かすことができない。
「な、なんだこれ?!」
金縛りだった。
「クソ、動け、動け……!」
顔の筋肉は動かせるし、胸に圧迫感はあるが呼吸もできる。しかしそれ以外はいくら力を入れようとも微動だにできない。彼の体は時でも止まったかのように硬直していた。
「どちらさまですか?」
風が吹いた。
「ひっ……!?」
少年の喉が、ひきつった悲鳴を絞り出す。
石造りの廊下に染み付いた冷気が、突如として彼のうなじを撫で上げた。
つい数秒前まで階段下にいたはずの少女。その『呪い』と呼ばれ忌み嫌われる彼女が、音もなく、まるですり抜ける影そのもののように、彼のすぐ背後に立っていた。
「記章を見るに、二年生の先輩ですね。気配を消す魔法を使って、私を突き落とそうとしたことに間違いはありませんか?」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ響きを孕んだ声。
少年は必死に逃げ場を探して視線を泳がせる。恐怖を塗り潰すように、彼は歪んだ優越感と焦燥を言葉に変えて吐き出した。
「う……うるさい! それよりこの拘束を解け! なんだこれは! 魔法具か?! やっぱりお前はこのような卑怯な手で不正を重ねているんだな!」
「否定しないのですね。私を押そうとした事実を」
「はぁ? オレはたまたまここを通りかかっただけだぜ? 何が起こったかなんて知らないのに、否定も何もありゃしない! だが押したか押してないかで言えば、押してない。言いがかりはよせよ」
階段をあがってきたユノが咎めるように少年を見る。
「わたし、先輩の手、掴みましたよね?」
「何のことだか分からないな。お前まで難癖つける気か? もうオレは行かせてもらうぞ。さっさとこれを解け!」
凄む二年生に対し、『呪い』は首を振る。
「難癖ではありません。私は確かにあなたが私の背を押し、階段下へ突き落とす瞬間を見ました」
「はっ、見え透いたウソをつくもんだ。そっちの鈍臭い女が勝手に落ちて、お前は自分から飛び込んだんだろ!」
言い終えた直後に、少年は自身の失言に気がつく。
「後から通りかかった割に、随分と詳しく状況を把握しているのですね」
少年は乾いた唇を舐め、必死に論理を構築しようとした。脳裏には、先ほど見た階段の赤い跡と、『呪い』の裂けた背中の残像がこびりついている。不気味な重圧が彼の思考を鈍らせた。
「……遠くから、そんな風に見えただけだ」
振り絞った声は力なく霧散した。
そのとき、廊下の奥から重厚な靴音が響き渡った。規則正しく、一切の迷いを感じさせない足音。
それはこの学園における絶対的な秩序の到来を告げるものだった。
「何をやっている」
「あなたは……」
「ホルン生徒会長!」
ブラウンの髪が肩に波打つ三年生の少女が一体の《アルカンゲルム》を連れて廊下を歩いてきていた。正体不明の目に見えぬ拘束が、急に解かれる。少年は光明を見出した。
「会長! コイツらがオレに不当な言いがかりをつけてくるんです! 自分たちが階段から落ちたのはオレが背を押したからだと」
ホルンと呼ばれた少女は、眉一つ動かさずに事態を概観した。
階段に残された血痕、治癒魔法の残光、そして立ち尽くす少女たち。彼女の冷徹な双眸は、事実を捉えるためではなく、あくまで「あるべき秩序」を維持するために、一方的な裁定を下した。
「ふん……薄汚い平民めが。偽証で貴族を貶めようとは性根が知れる」
ホルンの言葉には、微塵の疑いもなかった。生まれながらの階級というフィルターを通した時、真実はあまりにも容易に歪められる。
──彼女の脳裏には、このヴェールをかぶった少女がゲルトの元妹『呪い』であること、実際にこの少年はゲルトに命じられ『呪い』を突き落としたのかもしれない、という可能性がよぎっていた。
それでも彼女は貴族の少年の言葉以外、聞くつもりもなかった。
「偽証? 双方の言い分を聞かずに、一方の主張のみで虚偽と断ずるのは──」
ヴェールの少女から反論が紡がれようとした瞬間、大気が重圧を増した。
ホルンの合図によって腕を持ち上げた《アルカンゲルム》。頭部の眼が紫色に光る。威圧感が廊下の空気を押し潰す。彼女は少女の言葉を最後まで言わせるつもりなど毛頭なかった。
「黙れ。貴様……生徒会に対する偽証および誣告は厳罰だ。発言には注意しろ」




