86:前期ももう終わりだね
「局長。手が止まってますよ。デスクワークが局長の唯一の取り柄なんですから、目を開けたまま寝ないでください」
「そんな器用なこと、私にはできないよ」
クリーム色の髪の女が、男の赤毛をバインダーで軽く叩いた。
「じゃあ何してるんですか。ずっと同じ書類を見つめてるじゃないですか。視姦ですか」
「なんてこと言うんだ、メルキ補佐官……」
《特殊遺甲総局》局長。
皇立学園の臨時教師。
それらを兼任する三十代半ばの冴えない男の名は、アルバン。
魔力量の少ない男爵家の出自でありながら、《総局》で文官として実績を積み出世した官僚型の人間である。《総局》の通常局員や《皇帝の天盾》、騎士団が「軍服組」と呼ばれるのと対を成す、文官や非戦闘員の神官を主とする「長衣組」の筆頭であった。
「皇都の治安維持に関わる重要な書類だよ。一昨日の晩、怪しい連中が哨兵の目をかいくぐって皇都城壁を越えたとの報告があってね」
「局長。下手なウソまでついて誤魔化さなくていいです。眠たいならしばらく寝ていいですよ。私が膝枕してあげます」
「いやウソじゃないよ!?」
西方校舎三階の準備室にはソファがひとつしかない。そこに腰かけた局長補佐メルキは、自分の膝をポンポンと叩いた。上司を膝枕に誘う。アルバンは不器用に目をそらして断った。
「城壁警備なんて騎士団が一番張りきってる業務じゃないですか。魔物の討伐や面倒な雑事を私たちに押しつけて、皇都民からの評価のために過剰なくらい照明を設置して高い壁の上を散歩してるじゃないですか」
「まぁ、そうなんだよね」
辛口な早口に対し、脱力したように答えるアルバン。
「やっぱりウソでしたか」
メルキはバインダーを振りかぶった。アルバンは慌てて書類を広げ、補佐官の鼻先に突きだした。
「でもウソじゃないんだ。怪しい連中が城壁を越えたところを目撃したのはウチの局員なんだよ。軽々と、とんでもない身体能力で壁の上から家々の屋根へ飛び移り、住宅街へ消えていったらしい」
「? つまり?」
「騎士団の中で騒ぎになった様子はないし、報告の共有もなされていない。とにかく手柄を求める彼らなら躍起になって探すように思えるんだけどね」
「局長は、騎士団が手引きしたと思ってるんですね?」
アルバンは肩をすくめて見せた。
それは肯定だった。
「騎士団は教会の下部組織だ。教皇派がなにかを企んでるのはいつものことさ」
「堂々と城門をくぐれないような連中を外部から招き入れるなんて、やっぱり騎士団は腐った卵ですね。ひよっこなうえに腐敗臭がします。ムカつきます」
クリーム色の髪を揺らしてメルキは立ち上がる。
「私の華麗な水魔法で洗浄してやりましょうか」
まだ二十代の若い女補佐官は、バインダーを宙で素振りした。アルバンはそれを呆れ顔で見ながら、つけ加える。
「それに昨日から大障壁の警備システムにも大幅な改変があってね。権限にアクセスできないんだ。⋯⋯不具合だとは思うんだけどね」
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「んぅ〜〜〜〜、ふぅ。前期ももう終わりだね、ラシェルちゃん!」
長く伸びをして、くすんだ金髪の少女は声を弾ませた。
「途中、学園を休んでいたので実感は薄いですが……確かに入学から三ヶ月経ってしまいましたね」
「療養していたのだろう? 体調はもう大丈夫なのかい? ラシェル⋯⋯嬢。やはりまだ令嬢時代の奇病が残って……」
推薦枠の平民と第二皇子殿下が、『呪い』と談笑しながら廊下を通る。『呪い』は控えめに、ふたりの話に相槌を打っていた。ひとつにまとめられた黒髪と地味なヴェール、長いスカートがかすかな残り香をおいて少年の前を過ぎ去る。
人通りの少ない通路を選んで彼らは次の教室に向かっているらしい。『呪い』はどこにいても周囲の注目を集める。
貴族の少年はそっと彼女らの跡をつけた。
「前期演習試験の日程が発表されてたね。全学年で何日もかけて野外試験をやるって。あはは、今から緊張してきちゃった」
「あぁ。何日も、といっても個人戦だから全員の試験が終わるまで期間を要するというだけだそうだよ。確か、毎年恒例の試験だね」
『呪い』はあまり喋らない。
ふたりの話に短く返答するだけ。それでも彼らの間には妙な親密さがあるように見えた。
(なぜ第一クラスの皇子が第五クラスの底辺に声を……)
少年は目をぎらつかせた。聞き耳を立てながら、足を速めていく。
「また皇都近郊の森に行くのかなぁ? 生徒会からの告知だと、詳細は後日としか載ってないんだよね。わたし、上級生の知り合いいないからよく把握できてなくって……」
「二年、三年生は校舎が異なりますからね。学園は相当、広いですし」
「ほんとだよねぇ〜」
石造りの廊下は長く、一直線だ。突き当たりには階段がある。少年は反響する足音を最小限に抑えながら、前を歩く三人との距離を詰めていく。
「じゃあ、僕はこっちだから。またね、ユノさん。ラシェル……嬢」
「あ、うん。白クラスは剣術実技だよね。頑張って!」
「また昼休みに、殿下」
第二皇子は階段の前で横に曲がって、別校舎へ続く渡り廊下へと折れていった。少女ふたりはまた歩き始める。
(よし、いいぞ)
貴族の少年ははやる胸の鼓動を鎮めつつ、彼女らの背後につく。
「次の講義は……アルバン先生の政治学だね。なんていうか、いつも眠そうにしてて頼りない感じの先生だけど、地質・鉱物学以外にも造詣が深いの、すごいよね」
「いかにも学者然としていますが、《遺甲総局》の局長でもありますし……」
前を向いたまま会話する少女ふたり。廊下に人気は一切ない。そして少年の気配は、闇属性の魔法によって極限まで薄められている。
使い手の少ない希少な魔法であり、隠密系統を操れる魔法師は貴族から傭兵・暗殺者落ちして裏社会で名を馳せることになる例も多い。そんな曰く付きの魔法だ。近年は最大手暗殺組織「一座一門」の壊滅により、そのほとんどが皇都から駆逐されてしまったが。
「そっか、局長さんか。あっ、そうだよね。三年前わたしの村が魔物に襲われたとき、駆けつけてくれた軍人さんたちのリーダーが確かに、アルバン先生だった気もする──」
少年は足音を立てずに、走り出した。
目の前には『呪い』の少女。
そして、下りの長い階段が広がっていた。




