78:永生
ベルクナーは砂漠を走っていた。
銀の月光が砂丘の色を味気ない茶から白に変え、稜線の奥に穏やかな波のような影をつけるさまは、幻想的だ。
これが普段であれば、無味乾燥な感性を持ったベルクナーでも、砂の海や量感に富んだ星空に感じ入ることもあったかもしれない。
彼はめまいと頭痛をおして走っていた。
とても平静ではなかった。
沈む地面に足をとられ、転びかけながらも走る。いったいどこへ向かっているのか、自身でも分からないまま、ひたすらに足を動かす。砂漠の冷気が肺を刺し、乾く目からは滴があふれて、脇腹も痛かった。
ただ彼の頭を占めていたのは、一刻も早く、一歩でも遠くあの場から離れること。
老いた体が悲鳴をあげようが、ほんの少し前まで持っていた自信や矜持の残り滓が惨めな自分を怒鳴りつけようが、彼は走ることをやめなかった。
【永生】の枢機卿は不老不死と言われる。
真っ赤な嘘である。
不老ではない。ベルクナーの歳は六十三。身体は取り立てて健康と言えるほど丈夫でもなく、しかし差し迫った病におかされているわけでもなく、肉体の寿命はあと十年といくばくかだろう。
不死でもない。寿命がくれば、彼は死ぬ。
ただ──彼には「複数の命」があった。非道で残酷な仕組みによって成り立つ、【永生】の秘密。それは人柱だ。
身代わり。生贄。肉の壁。人の盾。人柱とは他者のために命を捧げ、犠牲となる人間を指す。
ベルクナーが命を落とすような傷を負うと、人柱が代わりに死ぬ。人柱の数が、彼の命の数だった。魂に課される死というペナルティを、他人の魂に代行させる。人柱が尽きるまで、ベルクナーの魂に死は訪れない。
怪我をすれば肉体は自動的に回復するのだ。
そして、彼の魔力量はそのとき「次の人柱」として設定されている人間のものに依存する。魂の代行とは魔力の器の代行でもあった。人柱が平民なら魔法は使えないし、逆に膨大な魔力を持っていたなら彼は大魔法を行使できる。
大貴族が妾や愛人との間にもうけた子どもを直接引き取ったり、没落貴族をひそかに攫ったりして、拠点に監禁することで、ベルクナーは一流の魔法師として名を馳せている。
この時点でも彼の命の数は数十を超える。
さらにそのうえで彼は保険をかけていた。
【分霊】ファルマンの分体を借り受けて、人柱の印を刻み込んだのだ。狭い部屋に押し込め、減った分だけ増えろと命令してある。ファルマンの分体は臆することもなく、快諾した。無限の命が、実現されていた。
そう、巷で言われるような「永遠に生きる人間」ではないが、外傷に対して、ベルクナーは紛れもなく不死だった。それは絶対の保証。【分霊】ある限り変わることのないルール。
どれだけ殺されようとも、生き返る。たとえ有能なストックが尽きて人柱が量産型ファルマンへ切り替わっても、死ぬことはない。【分霊】の分体は本体から世代が遠ざかり、増えるほど魔力量が落ちていくので戦力としては微妙だが、とにかく彼は死なない。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ」
ベルクナーは裸だった。歳のわりに鍛えられた体をさらして、無人の砂漠を駆けていた。
逃げなければ。逃げなければ。
生物としての弱点を克服したはずの彼はしかし、必死であるものから逃げていた。恐れているのは死ではなく、永遠の責め苦。
終わりなき拷問。
あの『悪魔』から逃れるためならばなんだってする。大丈夫、『アレ』は弱い自分を後回しにした。どうとでもできる、取るに足らない存在として、みっともなく背を向けて走る自分を見逃した。
悔しさなど湧いてこない。ごく当然のことだ。悪魔からすれば自分は羽虫も同然。比較するのもおこがましいほどの、純然たる事実。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ」
ベルクナーは背後に底冷えする圧迫感を覚えながら、回らない頭でひたすらに足を動かした。
彼は足元の砂が段々固くなってくるのを感じていた。遠くに緑が見える。大森林だ。砂漠が終わる。
そこは天にそびえる大樹が群れをなす土地。魔物が跋扈する人類の支配領域の外側。大陸の一割を占める広大な人跡未踏の地。
そこに逃げ込んだところで、常人ならもう二度と、人里へ帰ることはできないだろう。迷い込んだら最後、死ぬまで彷徨うほかない樹海。だがベルクナーには『感知』がある。道に迷うことはなく、魔物を避けることができる。襲われたところで、傷は治る。毒キノコで食いつないでも、泥水をすすっても、五体満足で彼は歩き続けることができる。
ここを突っ切って、皇都に戻る。
たとえ何年かかろうとも、この道以外を選ぶことはない。引き返すなどありえない。
消すことのできない根源的な恐怖は、精神の奥深くにまで刻み込まれてしまっていた。
コレは──常識とか法則とかいうものの、埒外の話だ。
ベルクナーにはかかげる大義がある。ファルマンを中心とする数少ない人間だけが知る大義。低俗な権力者には知らされていない、世界のための大義。ベルクナーはそのために努力する使命感も十分にそなえている。それは今でも変わらない。
だが、アレに抗ってまでその大義を叶えることに果たしてどれだけの意味があるだろうか。
我々が大義のためにどうするこうする以前の段階。
芯から理解してしまった。
おそらくあの場にいた誰よりも鮮明に感じてしまった。
震えて、諦めてしまった。
ヴァルデ、ファルマン、バルバナ。
枢機卿はこの大陸で最も隔絶した力を握る存在。古代の神器と呼ばれる魔法具を調教し、自らの力と変えて振るう存在。枢機卿に斃せない生命体など、この世にいない。
そう信じていたのに。
知ってしまった。恐ろしい現実を。
たとえ皇国の魔法師が束になってかかったとしても。
アレ──を。
アレを、殺せる訳が────。
「我々は⋯⋯アレの巨大な手に覆われた世界に、住んでいたのだ⋯⋯いつでも我々を握り潰せる、そんな存在の手の中に──」
□□□
物体を神聖力で覆い自在に浮遊させる物体操作を、俺は砂漠の楼閣に対して行っていた。
強制解体工事である。
楼閣の中に、ニルスの姿はない。おそらく、機密にあたる会話がなされるここに留まることは許されず、『天使』の捕縛と移送だけやらせて帰らされたのだろう。
「なんだ?! なんの揺れだ!」
「あぁ──バカな、ま、《摩転楼》が! 浮いてる……」
「外から攻撃! 攻撃されてるのでは!」
「何を言ってる、ここは我々以外人ひとり、魔物一匹いやしない大陸一安全な『墓場』だぞ。誰がどうやって攻撃など──」
大した情報も握らされず、ファルマンやベルクナーに利用されているだけのようだった高位神官や大貴族に利用価値はない。まったく教皇派の上層部と聞いて期待していたが損した気分だ。
「な、なんだ。小娘の身体も……浮いてるぞ」
どうも。
欠損した左目や左腕、裂かれた胸や下腹部を光が撫でて傷口を塞いだ。傷跡はひび割れた肌に軟膏を塗り込まれたように消えていき、滴る血は蒸発していく。
裂かれたドレス風のワンピースだけはそのままで、白皙の肌が取り戻された。はだけた衣服がひらひらとする。妖艶──というには発育が足りないかもしれないが。
へそや太もも、胸の横半分なんかもあらわで、結構不健全な格好である。我ながら。
「これは、お前の仕業か、天使!!」
さて……【神域】内で眼球をえぐったり腕を切り落としたりしたのはファルマンだが、彼らも【神域】外に出てから腹を割ったりなんだりと色々やってくれた。異空間から出ささせてもらうために油断させる、外に出てからもしばらく様子をうかがい会話を探る、という目的がそれぞれあったとはいえ、不快な時間だった。
「どこに魔法具を隠し持っていた!」
「回復魔法でも光線でも障壁でもないぞ……いったいどんな力だこれは」
「もしや、念動力?!」
だからといって意趣返しに苦しませる気もない。
「おい、さっさと魔法具の力を解除しろ! 今ならまだ許し──ア」
さっさと殺してやる。
「ひっ……!?」
面倒だからな。
額に穴を空けて動きを止める神官に、貴族が声にならない悲鳴を漏らした。
可視化されない程度の細い光線が、前列にいた権力者の脳を貫いていた。糸が切れた人形のように数人が崩れ落ちる。
「な……な……」
みな、いっせいに色を失う。
「どうなってる! 魔法具らしき所持品は軒並み奪っておいただろう! これは魔法具じゃないのか!」
「待て、というか《魔封茶》の効果は半日は保つ! 小娘に魔法具を操ることはできないはずでは!?」
なかば恐慌に陥りながら、彼らは後ずさった。
「魔法具ではありませんよ。神通力です」
浮き、申し訳程度に胸を隠しながら顔を眺め回す。レントシュミット公──ラシェルの父親はいないようだ。残念。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
俺の言葉が彼らの恐怖心を後押しした。半数が体の向きを変えて、階段へ向かって走り出した。この楼閣から抜け出すために。
そしてもう半数は、隣の部屋へ逃げ込もうとした。夜風が吹き込み砂漠が見渡せる、壁のない階だ。天井から垂れ下がる布をおしのけて、異国風の建築様式で造られた座敷へ駆け上がった。
「《摩転楼》起動! 今すぐ皇都へ転移しろ!」
「通信魔法具だ、そこの鏡台だ! 騎士団、いや、《総局》でもいい! 連絡しろ!!」
「ヴァルデ猊下、ヴァルデ猊下を呼び出すんだ!」
空に浮き、傾く建物の中で彼らはよく行動に移せていた。懸命なあがきは悪くない。しかし正解は、階段を下りて『天使』から尻尾をまいて逃げ出すことだった。
閃光。
勇気ある半数は俺の放った砲撃に巻き込まれ、蒸発した。楼閣の一角が階層をぶち抜いてまるまる消し飛ぶ。
逃げ出した半数は、彼らより少し──まぁほんの少しだけ、命を長らえることができた。
階段下へ転がり落ちるように逃げていった彼らに向けてもう一発デカいのを撃とうとしたとき、ベルクナーが余裕綽々の態度で立ち塞がったのだ。
「やれやれ、困りますね。貴重な魔力源をそう減らしてもらっては」




