77:月夜の砂漠と外道
少女の顔の半分は真っ赤に染まり、残った右目だけが必死に天井の青い光を捉えていた。目に痛い彩度の赤と青が毒々しいまだらを壁に描いている。
左腕はもうない。肩の断面が露出した肉と白い骨が、まるで切り株のように見えた。ドレスの袖は血を吸って重く垂れ下がり、少女の細い体をさらに小さく見せている。太ももから膝、足首まで、温かい血が絶え間なく滴り落ち、青い床に広がる赤い池を作っている。
天使の仮面はとうに剥がれ落ち、ただの怯えた少女の素顔がそこにあった。
(子どもなんて薄皮一枚剥いだら、みんなこんなものだよね。いや、そうだよなぁ。仮にも善と正義の救世主さまだったわけだし、ちょっとは期待してたんだけど。んま、奇跡の鬼才でもなんでもなく、魔力なしの魔法具頼りとなっちゃあねぇ……)
ファルマンは拘束魔法を解除した。虚ろな瞳でうわ言を呟く『天使』を、床に転がす。失血死の心配はない。ファルマンは特段優れた魔法の才を持っているわけでも、魔力量が多いわけでもないが、一流と呼ばれるにたる実力は有している。回復魔法もお手のものだった。
「どうかな、皆さま方。もうベルクナーくんの言葉を疑う者はいないんじゃないかな」
異空間の外へ呼びかける。
老紳士たちの手が少女の身体を乱暴に引きずり上げる。残った右腕をねじり上げ、鎖がガチャリと鳴る。足が床を離れ、引きずられる。血の跡が長い線を描いた。
どろどろと溶け始めた青い壁を眺めながら、ファルマンは空間にぽっかりと空いた穴から外界へと、死に体の『天使』を放り投げた。【神域】のタイムリミットが迫っていた。
「っと」
続けて彼も飛び出そうとするが、その前に出入り口が、まるで石をぶつけられたガラスのようにひび割れた。
あ、まずいと呟いて、外の自分にティーポット型遺物・《魔封茶》を投げる。陶器製に見えて不壊の特性を持つそれが相手にキャッチされたのを確認すると、ファルマンは足を止めた。
「じゃ」
虚空の闇へ青い廊下が同化していく。
溶け、割れ、歪み、明滅し、あらゆる面から崩壊してゆく異空間に分体たちは呑み込まれて消えていった。
「……」
人々はそら恐ろしげに老紳士を見つめた。
「ん? 何かな?」
人々は思った。
ここにいる彼さえも本体とは限らない。彼もまた容易く生み出され楽しげに死ぬ、ひどく軽い命のひとつにすぎないのかもしれない。目の前の彼に自我はあるのか。あるように見える。それでも彼は自らの命の終わりを恐れないのだろうか。
生命を軽んじ、飄々と顔色ひとつ変えずに非情で残虐な行為におよぶ老人が、権力者たちにはひどく異質なものに見えた。つい先程までの少女に対する凄惨な拷問を見れば明らかだ。そう、彼は狂っている──。
口には出さないが、この場にいる者は漠然とそんな思いを共有していた。
(みんなつまらないことを考えてそうだね。きみたちは本当につまらない人間だよ。本当に)
だがファルマンは気にもとめず、逆に哀れむ。防衛機制でもなんでもなくごく自然な哀れみ。自分たち以外の誰にも理解されない哀れみだ。
彼は手を叩き視線を集める。
「さ、ほら、お待ちかねの身体検査だ。いったいいくつの魔法具を隠し持ってるのやら」
血だらけの少女を靴先で蹴って転がす。彼女は枯れた声でうめいた。
(あぁ、つまらないのは何よりこの天使だ。拍子抜けだ。三年もワクワクしながら追いかけた天使は、今まで思い描いていたスペシャルな刺激は、全部私の妄想だった。はぁ。がっかりだよ)
「この偽天使は、魔力がないのに複数の魔法具を発動させてたみたいだからさ、皆さま方にも扱えるシロモノかもね」
権力者たちは色めきだった。
「おい、どけ! 早く触らせろ! 服の下に隠してるに違いないぞ!」
「天使──いや、こんなガキですら、あれだけ強大な力を手に入れられたのだ。才ある我らが手にすればいったいどれほどの……!!」
「ま、待て。それはカアウラス神降臨のために役立てるのですぞ! どれが誰のモノかなど──」
「術者の魔力に依存しないタイプか! 喉から手が出るほどに欲しいぞ……! 《魔撃銃》のように内蔵魔力消費型か、よくある外部充填型か? 試しがいがある」
「花柄のかわいいハンカチを持ってるのぅ。これももしやなんらかの──」
「腹をもう一度裂こう。飲み込んで肉体に効果をおよぼすタイプもある。どんな形状をした魔法具を持ってるか分からんから、糸くずひとつ見逃せないな。徹底的に解剖して──」
力なく横たわった少女にむらがり、体をまさぐる男たち。ファルマンを狂っているなどと断ずる資格は、彼らにはない。
仮にも、『天使』は表舞台に現れてから三年の間皇国のために身を捧げ、魔物を滅し民を癒してきた、まだ十代半ばの少女。「魔力ある我らこそが国を統治し、民を守る」という貴き建前を堂々とかかげる皇国貴族がその役目をおろそかにしている間、各地を飛び回って人々を救ってきたという事実がある。
彼らはなんと醜く愚かなのだろう。
少なくとも、刹那の快楽と刺激を求める自身の品のなさを、ファルマンは自覚している。
(ベルクナーくんも私も、己の外道を知っているだけまだマシなのかなぁ)
そんなことを考えながら、老紳士は席を外した。分体を適当に数体残して、彼は楼閣の階段をおりる。
「ふぅ⋯⋯」
砂漠の地表は涼しかった。
(あの娘に可哀想、だなんて本心から思いもしないし。あれだけ痛めつけてもまだイラつくしね)
長年の期待を裏切られたという苛立ちが再びふつふつと心にわきあがり、老紳士は『天使』を二言三言、下品な悪態の最上級で罵った。溜飲は下がらないが気は紛れた。
「はぁ。まぁいいや。戦力のアテも魔力のアテも外れたけど、魔力ならあの権力者どもを捧げればまだ足しにできる。今晩のところは帰って、そうだ、ニルスくんをしっかりこちら側に引き込んでおかないと──。っ?」
指折り数えて今後の予定を思案していたファルマンは、突然振り返った。
「──?」
振り返らざるをえなかった。
地響きがして、砂漠の丘が斜面を削るように崩れたからだ。揺れ動く地面に彼は転倒する。砂の上をすべりながら、彼は上を見上げた。
視界一面に──信じられないものを認める。
「は? え、ナニコレ?」
砂上に建つ荘厳な楼閣が、月夜に浮いている。
地中はるか深くまで突き刺さり建築物を固定していた長太い支柱が、ずるりと引き抜かれる。風に砂煙が舞って老人に吹きつけた。紳士の帽子が飛んでいき、燕尾服は汚れながらはためく。
「おぉ……、なんだコレは。バカみたいな……」
楼閣はまるで一点に収束するように縮んでいく。まるで巨大な不可視の両手によって丸めこまれているような。
「光景じゃないか」
高低さまざまな男たちの断末魔の合唱とともに、楼閣は美しく幻想的に、月夜へ弾けた。




