71:教皇(後編)
教皇は目の前から跡形もなく、消えた。
それはエメリーヌの腕輪が触れる直前。
彼の身体は唐突に、一瞬にして消失したのだ。
──は?
数秒前まで確かにそこにいた人間が、いまや影も形もない。神聖力で体をガチガチに拘束していたはず……であるにもかかわらず。
「ん、え?」
動揺するエメリーヌの右手を離し、俺は周囲に結界を展開し四囲を見渡した。ラグナ・ラシェル・エメリーヌは不可視の盾の中に守られる。ヴァルデであっても一撃では突破できない厚い壁だ。
「これはいったい」
警戒心を最大にまで高める俺に、背後から声がかけられた。
「そういう反応してくれるともっと驚かせたくなるよ。まったく、いくつ歳をくっても夜は心が踊る!」
茜と紺の混じる夜空のもとに、教皇が平然と立っていた。
「……なんてね。そうは言いつつ【教化】を食らうのはごめんだから、今日はここまでだ」
老人はゆったりと手を振った。
理解が追いつかない。何が起きたのか、何がどうしたためにそれが起きたのか。
教皇は神聖力の拘束から抜け出し、俺たちの背後に現れた。ニルスの所有する転移の遺物、《魔転書》でも持っているかのような所業。魔法ではありえない。相当に強力な魔法具を使ったとみえる。
消えて、現れる。現象だけ見ればまるで神出鬼没だ。
「エメリーヌくん、残念だよ。まさかきみが裏切るなんて思っていなかった。仲良くやれてると思っていたのだがね。どうやらきみは──まぁ裏切った以上、ヴァルデくんには次こそ、確実に消し飛ばしてもらいたいところだ」
芝居がかった動作で老人は両腕を広げ、空を仰いだ。
「さて、悪いけどお開きだ。私は一旦退場させてもらうよ」
そう、神出鬼没。
見た目に似合わず快闊で特徴的な喋りと、飄々とした立ち振る舞い。
俺の思考の中で何かが弾けた。
それは既視感。
時刻は夜。空の端に赤みを残しつつ、月夜がすでに頭上に開けている。この場にいるのはラシェル、ラグナ、エメリーヌ、老人。
三年前のとある情景が、現在の構図に重なる。既視感が俺に、あるひとつの仮説をもたらした。
「……ん、このままだと逃げられちゃう。エメリーヌをラシェルちゃんの力で飛ばして。左手で教皇の体を触ってみせる」
エメリーヌは囁くが、俺は片手で制した。
この仮説が正しければ、彼に「逃げられてしまう」事態にはならない。老人はただ、この世から消えるだけだ。
であるなら、【教化】が間に合うか間に合わないかの博打に出るより、もう幾分か確率の高い方法で確かめる。確かめられる──。
別れの挨拶とばかりに手を振っている今にも突然消えてしまいそうな教皇に向けて、俺は口を開いた。
「消えてしまっていいのですか、ファルマン。本体とは記憶が共有されないのでしょう?」
老人は固まった。
「分体のあなたは自殺すれば無為に消えるだけ。なら、私たちに協力しませんか?」
静寂。
そして、老人は心底感心したという顔でため息をついた。
「これは驚いた」
肩をすくめる。
「まさか知っている者がいるなんてね。や、本当に。ここ十年で一番の驚きさ。エメリーヌくんがいなければきみをすぐさま一万の私で圧殺していたくらいには⋯⋯驚いたよ。ふぅ、『気づいているヤツがいる』と本体に伝えられないのがもどかしいね」
それが答えだった。
「え……え?」
エメリーヌは訳が分からないとラシェルと老人を交互に見やる。
「エメリーヌさん、この教皇は【分霊】の枢機卿ファルマンの分体だった、ということです。本物の教皇は別にいるのか、それともファルマンの本体こそが教皇なのかは分かりませんが……彼はどうやら、ファルマンのようです」
少女は俺の説明に瞳を揺らし、「嘘⋯⋯」とひと言呟いた。
「あれ、その言い方、もしかしてカマかけだった? うーん、や、マズったかなこれは」
仮説に過ぎなかったことが、「私は知ってますよ」というベタなハッタリに自分が引っかかったことで証明されてしまったのだと気がついた老教皇。
「本体には重ね重ね、悪いことしちゃったけど……でもやっぱりここは退くしかないね。増えて戦おうとして【教化】されるのが最悪だから。うん、やっぱり私はここで消えとくのが最善だ」
ベラベラとひとり言を残して、老人はあっけらかんと笑った。
「それじゃ」
教皇はその場からフッと消失した。
「⋯⋯消えた⋯⋯」
「⋯⋯」
目を凝らすと、魔力が粒子となって空中に溶け込むのが見えた。大気に還元する魔力の残滓はきらきらと輝いている。【分霊】によって生まれた分体の肉体は魔力で構成されているらしい。
なるほど、それで増殖するも消えるも自由。
それに。
「…………どうやら【疾迅】と【神域】も彼の分体だったようですね。ヴェールを被っていた理由がはっきりとしました。顔が同じであるなら、隠すのも道理──」
いや待て。違う。
自分で言いながらひとつの矛盾に気がつく。
教皇の顔はファルマンの顔とはまったくの別人であった。あの燕尾服を着た老紳士に比べて大きく痩せているという点を差し引いても、顔の造形そのものが同一人物だとは思えない。
「⋯⋯」
考え込んだ俺だが、唐突にエメリーヌが思い出したように左拳で右手のひらをポンと打った。
「ん、そういえばファルマンの分体には、たまに個体差があるときがあった」
「個体差?」
「ん。いつもは完璧に同じ姿形の分身を作ってたけど、たまに個体差のある分体を生み出して、酒を飲んでたの」
「⋯⋯酒?」
話が急に飛躍する。脈絡が見えない。
「ん、あ、えっと……つまり、ファルマンが酒瓶を持ったまま個体差のある分身をすると、酒の味も変わるみたいで……」
言わんとする内容をなんとなく把握する。
ファルマンは服ごと分身している。【分霊】は裸の老紳士ではなく服を着た老紳士を無尽蔵に生み出す。身につけているものごと複製しているのだ。酒瓶を持ったまま分体を作ると、酒瓶を持った分体が生まれるのだろう。
稀少資源の市場ブレイカーみたいな神通力である。
「そんな感じで、ファルマンは個体差のある分身と、個体差のない分身を使い分けることができるみたい。ん、神器って不思議」
古代のロストテクノロジーに理屈は通用しない。そう結論づけるエメリーヌ。彼女の潔い思考停止をフックにして、俺は思い至る。もし個体差に理屈をつけるとしたら⋯⋯。
順当に考えて、「個体差」とはつまるところ劣化コピーのことで、増殖の誤差によって生み出されるものではないか? と。
「⋯⋯エメリーヌさん。ファルマンは身につけているものごと増殖する。そうですね?」
「ん、そう」
「つまり分体も【分霊】の神器を持っている。本体だけでなく、分体にも増殖する力があるわけです。もしかすると、個体差のあるなしの差は、そこに由来するものかもしれません」
軽くエメリーヌは目を見開いた。
「本体がいっぺんに百人の分体を作ったとき。分体が分体を生み、その分体がさらに分体を生み……と連鎖を繰り返して増殖したとき。この二種を比べたとき、後者には個体差が生まれてもおかしくない……とは思いませんか?」
ひとつの鋳型から百の複製を作るのと、ひとつ作っては鋳型を取り直すのとでは、誤差の生じる度合いが違う。
分体に分体を作らせる。この方法を繰り返すことで、個体差を拡大させていき、ファルマンは「教皇」という別の人間を作り出したのではないだろうか。
「……な、なるほど。よく分からないけど……なるほど。ラシェルちゃん凄い」
エメリーヌはぼんやりと理屈の概要を把握して、なんとなく俺を褒めた。
「それからもうひとつ、同時に気がついたことがあります。体が魔力によって構成され、魔力ある生命を襲い、魔力を奪って増殖する人類共通の敵が──大陸にはいますね」
「『魔物』」
息を呑んで、少女は言葉を継いだ。
俺は頷く。
「【分霊】の個体差が拡大に拡大を重ね、人間の形すら捨て始めたとしたら……」
まったく、酒場で飛び交う安い怪談じみた推測にたどり着いてしまった。
しかしそれでいて、なかなかどうして、否定しきれない推測である……。




