70:教皇(前編)
自治都市から国境に沿って東へ進んだ先に、山脈が長く連なっている。大地が縒れてできあがった地上のシワに、天を衝く数々の峻険な峰がそびえ、夕暮れの空に黒黒とした陰影を加える。
極寒の頂上に生命の息吹はなく、魔力ある生命を追う魔物もまた存在はしない。そんな前人未到の奥地に、今日は数人の人間が足を踏み入れていた。
「やってくれるじゃないか。民の前であのふたりを殺すなんて。今ごろ騒ぎになってないといいけどね。誤魔化すのも大変なんだ」
痩せた老教皇は空に吊り下げられながら、表情ひとつ変えずにあくびをした。
俺は岩に座りながら、ラシェルの体がここまでエメリーヌを連れてくるのを待つ。思考の三割をそちらに割きつつ、教皇の言葉を咀嚼する。
……世界宗教の要人・枢機卿がふたりも殺されたのだ。騒ぎになるに決まっている。誤魔化すもなにもないだろう。
「……妙な言い方をするな。どういう意味だ」
「意味なんてないさ。きみを困らせて遊んでるだけ。気にしなくていいよ〜」
「…………」
教皇の態度が表彰式で見せていたものとはまったく異なる。
『よい。彼は神官ではない。信徒はいかな被服にあろうとも信徒である。冒険者には冒険者の礼装があろう』
鷹揚にこのような振る舞いをしていたのは演技で、今俺に見せているこの人を食ったような態度が素か。
「や〜、しかし、まさか空を飛べるなんてね。まるで最近有名な『天使』みたいじゃないか。会場から飛び降りたのは、目撃者に飛べると知られないようにするためかい? この大陸に空を飛べる手段を有する者は私の知る限りでも、『天使』を名乗る少女と、ニルスくんと、ヴァルデくんと、あとはバルバナの四人しかいないからね。きみは『天使』の関係者ってとこかな? それとも無関係の五人目? どういう手品で飛んでるんだい?」
教皇の口にした「バルバナ」とは【護光】の枢機卿バルバナ・ド・フアナのことだ。どうやら名前からして女らしいということは分かるが、それ以外の情報がどこにも転がっていない、もっとも謎の多い枢機卿。神通力の詳細が民に明かされない点はほかの枢機卿も同様だが、そもそも【護光】は表舞台に姿を見せたことがなく、そして一度も「代替わり」をしていない。
【分霊】【征圧】【教化】【断罪】【疾迅】【神域】──俺が今までに接触した枢機卿のほとんどは代替わりをしている。つまり、神通力を後継者に引き継がせている。当然だ。人間には寿命がある。不老不死と呼ばれるユノの後見人・【永生】をのぞき、神は新たな世代へ、新たな世代へと神通力を授けなおしていることになっている。
だが【護光】・バルバナは建国から千年、名前を変えず生き続けているとされる。彼女は初代教皇の懐刀だったらしい。巷では【護光】は永久欠番として残されており、死んでなお初代教皇へ忠誠を尽くす栄誉を与えられているのだと語られる。……根拠のない噂である。
しかし古代の魔法具が「遺物」と呼ばれて特別視されているように、皇国建国以前の時代の魔法具技術は常識外れそのものだ。遺物の中でも飛び抜けた性能のものが「神通力」として今なお枢機卿に連綿と受け継がれていることからも分かるように。
なんらかの力によって実際に千年以上生き続けているということもありうるし、ひっそりと代替わりしているということもありうる。
バルバナの居場所は分からないが、【護光】の力が強大だった場合、後に憂いを残すことになりそうだ。
「【護光】はどこにいる」
どうせ答えないと思いつつも、問いかけてみる。
「大森林を超えた先。皇都から東に進んだ最果ての砂漠・『墓場』にいるよ。ゴホッ、ゴホッ」
──あっさりと答えた。老いた教皇は苦しそうに咳をしたあと、水をくれと空中に固定されたまま手を伸ばした。ちなみに水はない。
「エメリーヌが来るまでは無駄な時間になるとばかり思っていたが、ずいぶん素直に答えるな」
「嘘を言ってるかもしれないけどね。ゴホッ、それよりなんだって? エメリーヌくん? ヴァルデくんが殺したと聞いていたが、生きてるのかい?」
「『墓場』とはなんだ。説明しろ」
教皇からの問いかけは無視し、一方的に問う。
「……さてね。気が削がれちゃった。あとは【教化】してから訊いてみなさい」
教皇は黙りこんだ。
……墓場。
俺は下界に降臨した直後の神官の言葉を、まだ覚えていた。三年前、孤児として受肉したとき俺をなぶっていた男のひとりが発した言葉。
『行こうぜ。猊下もこんな村に長居はしたくないだろ。『墓場』でストック切らしてイライラしてたし……』
猊下とは【永生】のベルクナーだ。彼は『墓場』の帰りにユノのいる村へ立ち寄り、そして部下の神官を隕石に──実際は孤児ラグナエルに──殺された。村を立ち去ったベルクナーをユノは追いかけ、被後見人へとなりおおせた……。
そんな三年前の出来事をもう遠い昔のことのように回想する。
「──グナエル。ん、エメリーヌ、到着した」
そのときラシェルとともにエメリーヌが山頂に降り立った。時間だ。
「あれ、てっきり『天使』が来るのかと思ったけど、アテが外れたなぁ。空を飛べる人間がこんなワラワラいるなんて思ってなかったよ」
飛翔してきた黒髪のラシェルを見ての教皇の感想。髪色を白金に変えていないため天使だとは思われなかったようだ。当然、ヴェールをつけていない『呪い』のラシェルだと気がつく気配もない。
「それから久しぶりだね、エメリーヌくん」
「────教、皇」
エメリーヌは風が吹けば飛ぶような枯れ木の老人にヨロヨロと近づいた。彼女が待ち望んでいた復讐相手だ。事情は知らないが、俺に協力する代わりに「教皇には直接手を下したい」と前々から約束を結んでいた。望んだ相手がいま彼女の目の前にいる。
「エメリーヌは復讐……復讐する……」
少し呆然としながら、銀髪の少女は老人の前で繰り返した。長年の怨敵を前にして我を忘れているようだ。
「憎き教皇に……私がこの手で、復讐する……」
「エメリーヌさん。まずは【教化】をお願いします。情報をすべて引き出してから、そのあとはどうぞお好きなように」
ラシェルに意識を移しながら呼びかける。
この場にユノは連れてきていない。彼女は『天使』とその活動に幻想を抱いているだろうから、こういった場には立ち会わせない方がいいと判断した。……ラグナエルが第一皇女アリカを斬ったのはやむなしだ。まさか立ちはだかるとは思っていなかったからな。傷は浅いはずだ。
「まずは『知る限りの教会の機密すべてをここで打ち明けなければならない』くらいの抽象度からお願いできますか。あまりに強く認識を改変して早々に思考が歪んでしまっては正確な情報収集に支障をきたしますから……」
「……わかった。私に任せて」
宙空で金縛りにあっている老人の首に、エメリーヌは指をかけた。その手は、腕輪をはめていない右手だ。
「……? エメリーヌさん?」
銀の腕輪・【教化】の魔法具は、相手の体に接触させなければ洗脳が発動しない。しかし少女はなぜか腕輪をつけた左手ではなく、もう一方の手で老人に触れている。
「っ……ハハハ、これは面白……ぃ!」
教皇が息苦しそうにうめいた。エメリーヌは右手で、老人の首を絞めあげていた。
「何をしているんですか、エメリーヌさん」
指摘すると少女はパッと手を離した。教皇は途端にゴホゴホとむせる。
「あぁ……ごめん。私としたことが、間違えた」
少女は頭を下げる。
「ごめん、ちょっと私、冷静じゃないみたい」
「無理はせず、深呼吸をしてみてください」
エメリーヌをしばし休ませる。落ち着いたところで今度こそと再度促すと、彼女はコクンと頷いた。そして再び──右腕を伸ばす。
「…………」
「殺意の高いお嬢さん、だ……う、かはッ」
少女はまたも老人の首を絞めた。腕輪をつけた左腕は体の横に下げたまま、片手のみで相手の喉元をくびる。教皇の体が痙攣を始め、口の端から唾液が垂れだした。
「ぉお……死に、死にそ、うだよ、ハハ、ハ…………っ」
ぐりんと眼球が裏返り、老人の顔から悠然とした笑みが消えた。
「…………」
俺は神聖力を使って彼女から教皇を引きはがす。いつも無表情な銀髪の少女が取り乱した様子でよろめき、地に手をついた。
俺は教皇を治癒の光で包む。
老人はすぐ咳き込んで、また目を開けた。
俺は少女を見やる。
「ラシェ……ちゃん。止めないで。…………ん、いや……ごめん。違う。エメリーヌが悪かった。次はちゃんとやる。それが、ラシェルちゃんとの約束だった……」
エメリーヌは泣きかけていた。月光のようにさやかな銀の瞳がうるんで、くちびるは震えている。
「大丈夫ですか?」
「少し……怖い」
「怖い?」
「エメリーヌは……エメリーヌはこんなに、殺したかったんだ。教皇猊下のこと……」
少女は荒く息を吐いた。
「私を捨て……裏切った教皇が、とても、とても憎い。自分でも怖くなるくらいに」
「──エメリーヌさん、私の手を握っていてください」
返事を待たず、俺はやわらかく彼女の右手を握った。
「あ……」
「大丈夫です。私が隣に、一緒にいます」
心中の怪訝はおくびにも出さず、俺は『天使』を演じた。
ラシェルとエメリーヌは手をつないで、老人の前に立った。今度は確かに、腕輪をはめたエメリーヌの左手首が彼の身体に触れる。
少女は少し動きを止めて、頬を染めながらラシェルを見つめた。俺は頷く。
「発動」
そして発動の呪文が唱えられる。
「【教化】対象:教皇──」
──そして教皇は、目の前から跡形もなく、消えた。




