56:目を瞑って⋯⋯(皇子視点)
早朝の静寂を脱し、皇都の街並みは活気という名の熱を帯び始めていた。石畳を叩く馬蹄の音と、開店準備を急ぐ商人たちの威勢のいい声が、冷たく澄んだ空気を震わせている。立ち並ぶ建物からは、パンを焼く香ばしい匂いや、薪がはぜる煙が漂い、生活の営みが幾重にも重なっていた。
「……すごい人だね。これなら、僕たちのことなんて誰も気に留めないだろう」
「そうですね。とても賑やかで……少しだけ、浮き足立ってしまいます」
スタニックは、隣を歩くラシェルとの距離に細心の注意を払っていた。ケープのフードを目深に被った彼女は、雑踏の中でも浮世離れした静謐な空気をまとっている。ふとした拍子に肩が触れそうになるたび、スタニックの強靭な心臓は、戦場でも経験したことのない早鐘を打った。
二人はまず、中央広場に面した朝市へと足を踏み入れた。色鮮やかな果実が山積みにされた屋台、香辛料の袋から漂うエキゾチックな香り、そして色とりどりの布地が風にひるがえる。スタニックは、皇族としてではなく一人の少年として、隣を行く少女の興味を引くものを探して視線を遊ばせた。
「ラシェル嬢、あの髪飾りはどうだい? 君の黒髪によく映えると思うのだけど」
彼が指さしたのは、青い魔石を模したガラス細工のついた銀の簪だった。
「どうでしょうか。華美な服飾にはあまり興味がなかったものですから、自分では分からなくて」
「君にはとても、似合うと思う」
スタニックは照れ隠しに早口で言い、商人に銀貨を差し出した。受け取った簪を彼女のフードの隙間にそっと差し込むと、ラシェルは驚いたように目を見開き、それから唇を綻ばせた。その柔らかな微笑みに、スタニックの理性が一瞬で溶け落ちそうになる。
昼時が近づくにつれ、二人は街の喧騒を離れ、皇都の象徴である大時計台へと向かった。長きにわたり、街の時を刻み続けてきた巨大な石造りの塔。その内部には、巨大な真鍮の歯車が複雑に噛み合い、鈍い金属音を立てて回り続ける、精密な機構が横たわっていた。油の匂いと、時が積み重なった埃の匂いが混ざり合う螺旋階段を、二人は一歩ずつ登っていく。
最上階の展望デッキに出ると、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
「……絶景だね。城から見る景色よりも、ずっと近くに世界を感じる」
眼下には、まるで玩具のように並ぶ赤い屋根の家々と、縦横に走る運河が太陽の光を反射して銀色に輝いている。吹き抜ける風がラシェルのフードを押し戻しそうになるのを、少女はしなやかな手でおさえた。
「本当ですね……。この街のすべてが、生きているのだと感じます。かつての私が知る世界は、寝台横の窓から見える四角い空だけでしたから」
ラシェルが手すりに手をかけ、遠くを見つめる。わずかに見え隠れするその横顔は、陽光に透けるほど白く、けれど凛とした強さを秘めていた。彼女が放つ「生きている」という言葉の重みが、スタニックの胸に鋭く突き刺さる。
スタニックはたまらず、彼女の隣に並んだ。手すりを握る自分の大きな手が、彼女の細く白い指先のすぐ隣にある。
「君の病は……完全に治ったのかい?」
ラシェルは答えなかった。
そのあとふたりは時計台をおり、露店商が並べる古物や骨董品を見て回った。古貨幣、漆器、香木、象牙製品、書物、楽器、皿、油絵や版画、家具まで。中には、磨かれた石だけを売っている露店もあった。
「アルバン先生がいれば、どれがどういうものか、解説してくださりそうですね」
「…………。そうか、君もアルバンの授業を受けたのだったね」
意外な人物の名が飛び出したことに少し驚くスタニック。アルバンは皇子幼少時の教育係のひとりとして、彼に勉学を教えていた。それ自体は別段、隠されていることでもない。ラシェルも旧い師弟関係のことは知っているようだった。
「アルバン先生との間に、なにか? 確執がおありのようですが……」
「大したことじゃないさ」
スタニックは軽く手を振って答えた。
だが、ラシェルが肩を落とすのを見て彼は慌てる。
「……差し出がましい質問をしてしまいました。すみません、私、少し舞い上がっていたようです……」
「ち、違うんだラシェル嬢! 別に君だから言いたくないとか、そういうことじゃなくて……!」
少女を悲しませまいと弁明しようとする。
その気持ちを少女は汲み取ったようで、彼女はさらに申しわけなさそうにしたあと、場の空気を入れ替えるように、少し明るい声を出した。
「……午後、行きたい場所があると言ったのを覚えていますか?」
「ああ。もちろんだよ。君が行きたい場所なら、地の果てまでエスコートしよう」
「話したいことがあるのです。本当ならばここで……でもそれはまだ少し、恥ずかしくて。私に案内させてください」
ここではできない、話したいこと。想像をかき立てる言葉にスタニックはどぎまぎした。少女は彼の手を引き、歩き出した。
大通りを抜け、横道に入り、路地を抜ける。
ふたりは和やかに会話しながら歩みを進め、だんだんと街路は狭く薄暗くなっていく。
「いったいどこへ向かっているのか、楽しみだよ」
「歩かせてしまってすみません、殿──スタニック。このあたりです」
「ここかい? でもここには何も──」
ちょうどそこで石畳がとぎれる。両脇を廃墟が囲む袋小路となっていた。
「すみません。でも暗い場所じゃないと、恥ずかしくて」
「……?」
「目を瞑って、くれますか」




