55:デート(皇子視点)
それは緊張。
鍛えあげられた心身に裏づけられる自信が、ここのところすっかり鳴りをひそめ雲隠れしていた。落ち着きなく、公爵本邸で訓練をする。平生の悠々とした余裕はどこへやら、柄にもなく彼はそわそわとしている。
「おいスタニック。どうしたんだお前」
「……なんでもないさ」
アドルフには絶対に言えない。
誰にだって言えないことだが、アドルフだけには特に、知られるわけにはいかなかった。
彼が蛇蝎のごとく嫌う妹と、デートするなど。
親友の妹と惚れた腫れたやっているというのは気まずい。第二皇子という身分を考え、次に相手の「勘当された元貴族の平民」という不名誉な身分を考えれば、外聞も悪い。平民との恋愛も、愛人という形でなら黙認されるだろうが、悪名高い『呪い』が相手となれば話は別。一大スクープだ。皇帝派にとって格好の攻撃材料になってしまう。
(誰にも、バレるわけにはいかない)
スタニックはそのために、魔技武会を見に行く前々日、皇都を旅立つその日に逢引の約束を取りつけた。城の人間にはもう出立したと誤魔化し、自治都市までの護衛には遅れて追いつくと言っておく。
これで誰にも知られずにラシェル嬢と密会できる。
「それにしても教皇猊下もねじこんだものだね。急にアドルフを出場させると言い出すなんて」
「第一皇女が参加するのだ。ならば教皇派からも、となるのは自然だ。大陸諸国に皇国の威信を知らしめるまたとない機会でもあるしな」
アドルフは「確実に皇女を圧倒するさまを見せるため、同年のお前ではなく俺を選んだのだろう」と続けた。そして話題を転じる。
「そういえば、局長アルバンとはどうだ。臨時教師なのだろう。地質学だったか? 教わったか」
「…………あぁ。相変わらず、彼は学者さ。実利とは無関係に真実を探求し、人々は知の前に平等だと信じている……」
アドルフは「真実」という言葉に、うすく笑った。
□□□
「あ……お早いですね」
「ラシェル嬢」
頬が上気しているのが自分でも分かった。
早朝の冷気にさらして鎮めようとしたが、それに反発するように体はさらに緊張の熱を帯びた。落ち着いた二十代の青年にも見られることの多い彼であるが、ここにいるのはいまや、耳朶の先まで真っ赤に染めた、ひとりの少年にすぎなかった。
「で、では……行こうか」
「はい、殿下」
少女はヴェールをつけていなかった。
かわりにケープ一体型のフードを深くかぶり、顔を隠している。銀の刺繍が朝日にきらきらと輝く白いケープの奥に彼女の黒髪が揺れる。整った口元がやわらかく笑うのが見えた。
綺麗だ。
それが彼女への第一印象だった。身体能力検査でアルカンゲルム相手に見せた剣の冴え。一見基本型の平凡な剣に見えて、剣の真髄が秘められている。スタニックはそう確信した。二十枚の障壁を一振りで割るその技量は凄まじい。彼女が忌み子だろうが『呪い』だろうが、そんなことは関係なかった。彼は素直にラシェルに感嘆した。
そして、合同演習試験の、あの一撃。これまでの人生で出会ったどの剣より美しく流麗な剣。炎の壁を突き破ったあの一撃が、彼に鮮烈な衝撃を与えた。目で追えぬほどの急加速と、寸止め。並の筋力では不可能な芸当だ。あの細腕でどれだけの修練を積めばなしえるのか。
血を吐く、まさに神からの『呪い』のような奇病におかされ、十年以上床に臥せっていた少女が、独学で、たった三年であの領域に達するとは。
試験には勝利したが、スタニックは負けていた。まるきり慮外の一撃だったとはいえ、剣技・体術のみならば皇国一を自負し、稀代の天才と呼ばれる王国の「剣豪テレサ」にも劣らぬと思っていた自分が呆気なく剣で負けた。
気づいたときには、惚れていた。
理性ではなく、感情でもなく、生きざまとして蓄積されてきた彼の魂のありようが、心の根幹がもう、彼女に奪われていたのだ。
『──綺麗だ』
あれから何度も何度も、黒髪の少女の姿がフラッシュバックした。障壁をやすやすと斬り裂いた美しい剣。眼前に迫る美しい一撃。はためき、めくれあがったヴェール。夜空のように美しい瞳。ふっくらとした唇。日を浴びたことのない彫刻のような白皙。
『……しまった、ヴェールが』
初めて見た彼女の表情は、炎の壁にあてられて顔がほのかに赤く染められ、慌てたように口を開き、スタニックの目をまっすぐに見つめる──そんな表情だった。
スタニックは思い出すたび、心が焦がれ、悶えた。
それまで色恋沙汰とは無縁で生きてきた第二皇子。将来は皇帝が決め、政略結婚をする。第一皇子は魔物の毒牙の前に亡くなっている。順当にいけば、自分は皇帝の座につくのだろう。退屈な為政者の座に。そう思っていた。
だが、彼女のためならば。彼女と結ばれるためならば皇位継承権など捨ててしまいたい。そう思えるほどの少女と出会ってしまった。
胸のしめつけが、理性を凌駕しそうになる。
しかしスタニックはそれを、民を背負う皇子としての自覚と責任でもって抑えこむ。
恋愛は学生の間だけ。
卒業したなら、彼女と会うことはしない。
「午後は私、ふたりで行ってみたい場所があるのです。それまでの間、エスコートしてくださいますか? 殿下」
ラシェルは鈴の鳴るような澄みきった声で金髪の皇子を呼んだ。
「殿下はよして、名前で呼び合おう、ラシェル嬢。呼び捨てで構わないよ。お忍びだからね」
「分かりました……スタニック」
「っ……」
予想外の多幸感に動揺するスタニック。
早くも決意が揺らいでいた。皇子は慌てて、デレデレと緩みそうになる気と頬を締めなおした。




