46:ふざけてる(前編)
校舎の陰に湿り気を帯びた空気が沈殿する。
「ラシェルちゃんは、ラシェルちゃんは────『天使さま』、なの?」
問いかけたユノの瞳は、縋るような光をたたえて潤んでいた。
黒髪の少女が口を開く。答えが紡ぎだされようとする、まさにその直前。
「天使……。天使……!?」
アリカは小さく声をあげてしまった。
慌てて口をつぐむが、遅い。
「えっ誰? 誰かいるの?」
少女たちは会話をやめて周囲を見渡した。
「植え込みの方から聞こえました」
茂みにひそむふたりの方へ向けられる視線。
(転移するか? まだ間に合うぞ)
(この状況で逃げろって? しないわよ、そんなみっともないこと)
「悪かったわね。本当はすぐ立ち去ろうと思ってたのだけれど」
アリカは立ち上がって枝葉をかきわけた。
「だ、第一皇女殿下!? と、ニルスさんじゃん!」
しぶしぶ、少年も姿を現す。
「ニルスさんが殿下に呼び出されたとおっしゃっていましたが、なるほど。こちらでお話されていたのですね。先客がいらしたとは気がつかず、失礼しました」
元公爵令嬢ラシェルは優雅にお辞儀した。
「ええそうよ。公務について、密談をしていたの。文句でもあるかしら?」
それに対し、アリカは胸をそらして権高に言い放つ。ニルスが呆れ顔で、アリカの整えられた金髪を軽く叩いた。
「礼節に無礼で返してどうする。いくら堂々としていようが、逃げるよりよほどみっともないぞ」
ムッとして振り返ったアリカの額を、さらに指で弾く。皇女の威厳などどこ吹く風といった仕草に、ユノが目を丸くする。
「気安く皇女を叩かないでくれるかしら……。でもまぁ、そうね。今の態度は撤回するわ。失礼したわね」
一応、ユノとラシェルへ頭を下げた皇女。
だがすぐに横の少年を睨む。
「でも、『まだ間に合うぞ』とか言ってしれっと逃げようとしていた共犯者さんが礼節を説くなんてね。冗談のセンスが尖ってるわ、ね!」
アリカは体重をかけて彼の足を踏んだ。
苦悶の声をもらしたあと、ため息をつくニルス。
「それを言うならそもそも、オレはお嬢さん方がここにやってきた時点で立ち去ろうとしていた。『天使』の話題に食いついてオレを引き止め、盗み聞きをしていたのは姫さんだろう……」
ふたたび少年の足が踏まれる。
「命が惜しければ、余計なことは言わないのが身のためよ、犬」
「オレは犬じゃない」
「じゃあ馬車馬ね」
「馬車馬か。あながち間違いじゃないが、不名誉だな。せめて騎馬とか軍馬にしてくれ」
面白くもないやりとりが延々と続く。
「あはは……わたしたち、なに見せられてるんだろう……」
困ったように眉を寄せながらも、おかしそうにユノは笑った。
「……こういう友人関係も、あるのですね」
ラシェルがなにか呟く。耳ざとくアリカが聞きつけ、口を差し挟もうとしたとき、「ラシェル嬢!」と呼ぶ声がした。
この場にまた新たな闖入者が現れる。
「ラシェル嬢!」
狭い校舎裏に大声が轟き、四人はいっせいに振り返った。
「スタニック殿下……」
そこには皇子が立っていた。
「……って、あれ? アリカ姉さんに、ニルス? ユノ嬢まで……」
短い豪奢な金髪がたくましい体格のうえに揺れる少年の名は、スタニック・アレクサンドル・ド・エイリトニア。ラシェルをこの場に呼び出した張本人である。
「おひとりでというお話でしたのに、すみません殿下。アリカ殿下たちとは先ほど偶然お会いしまして」
申しわけなさそうにするラシェルに、スタニックは「いいよいいよ」と腕を振る。
「スタニック、あなた……」
「ひさしぶり、アリカ姉さん」
第一皇女と第二皇子。ふたりとも十五歳。体格からは想像がつきにくいが、れっきとした双子である。昔は仲も悪くなかったが、兄・第一皇子が死に、スタニックが教皇派閥へ移ってからは、ろくに口をきいていない。
「ニルス。手」
「いいのか姫さん、殿下は──」
「そこの『呪い』に用があるんでしょ。私たちがいたら邪魔じゃない。早く行くわよ」
アリカはニルスの手をとった。
「騒いですまなかったな、ふたりとも。それから殿下。これにて失礼します」
「あぁ……またね、ニルス。アリカ姉さん」
少年の足元から鮮やかな緑の光があふれだし、二人を包みこんで虚空へと消し去った。
校舎裏にラシェル、ユノ、スタニックの三人が取り残される。少しの沈黙が舞い降りる。
「わたしもお邪魔……だよね。荒事かもっていうのもわたしの先走りだったみたいだし……ごめんね、ラシェルちゃん。えっと、殿下。わたしは少し離れたところから──」
「いや、きみはいてくれていい。ここ、意外と暗いね。近くの廊下や窓からは死角だ──こんなところに呼び出すなんて、気遣いが足りていなかった。友人がいなければ心細いというのは当然だ」
スタニックは遠慮がちなユノに対し、包容力のある笑みを向けた。彼特有の、身分に囚われない鷹揚さがその一挙手一投足に滲みでている。
「ラシェル嬢」
皇子は一歩踏み出し、ラシェルの正面で直立した。その真剣な眼差しは、周囲の風景をすべて削ぎ落とし、ただ彼女一人だけを射抜いている。
「……? なんでしょうか」
改まった姿勢でスッと真剣な表情になったスタニックに、ラシェルも自然、背筋を伸ばした。
なにか重要な話か。
重大な宣告か。
今後の学園生活に関わる忠告でもするのか。
脇で見ているユノの方が緊張して、つばを飲んだ。
スタニックは口を開く。
「僕と────デートして欲しい」




