43:ワインレッド
突然に跳躍した少女。
エメリーヌは俺の身体に、触れた。
油断した。一瞬の隙をつかれた。
手首の腕輪がすでに俺の腕へ触れている。
飛びつかれて宙を舞う、ふたりの少女の身体。
「……エメ──」
何のつもりか、問いただそうと彼女の顔を見る。
少女は普段と変わらぬ、無表情に見えた。
問いただす?
何を言っている俺は。
即座に、【教化】が発動するその前に彼女を殺すべきだ。
いや、腕輪を吹き飛ばすだけでいい。神通力──枢機卿の持つ遺物「神器」はおそらくそれで無効化される。【断罪】の細身剣のように破壊だけして、そのあとで問いただせば──。
「ラ」
エメリーヌの顔が、そのとき、消えた。
「シェ────」
視界を強烈な熱風がさえぎる。
燃え盛る青々とした炎。
それが少女を包みこんでいた。肉の焼ける臭い。
少女は別々の方向へ吹き飛ばされる。
俺の髪の先が燃えるエメリーヌをかすめて、チリチリと焦げた。
そう、エメリーヌは燃えた。
青い炎はすぐに鎮火して、少女の全身は炭化し、崩れ落ちる。
俺は地を転がった。
「エメリーヌ!!!!」
エメリーヌは黒焦げになっていた。
やっと理解が追いつく。
彼女は俺を突き飛ばしたのだ。
襲いくる炎から俺を守るために。
「おぉ……! ヴァルデ!! 来てくれたか!!」
サリナスが驚喜した。
見上げると、月夜に女が浮いていた。
飛翔を可能とする魔法の存在しないこの世界で空を飛ぶその人間を、サリナスは「ヴァルデ」と呼んだ。
「【征圧】のヴァルデ……!!」
鋭く四囲を射るワインレッドの瞳。後ろでひとつにまとめられた暗い血色の髪。豊かな胸と、妖艶な肢体。
理知と暴力を美女の体に押しこめて作ったような、危うい雰囲気をまとった女だった。
大陸最強と謳われる枢機卿、【征圧】。千の魔法を指先ひとつで操り、大地を火の海に変える。一晩で国を落とす。そんな真偽不明の噂が飛び交う、警戒に値する魔法師だ。
この場でとるべき最善手は──。
「ヴァルデ、聞いてくれ! エメリーヌが裏切った! そこの『呪──」
砲撃がサリナスの全身をえぐった。
男は、肉体の九割を神聖力の光の中に蒸発させて死んだ。
結界を展開。
ヴァルデからの追撃を防ぐ極厚の壁を幾重にも連ねる。
同時に、その他のエネルギーをすべて、一カ所に集める。
「エメリーヌ……まだ、死なれては困る……!!」
治癒の鮮烈な光が、森にあふれた。
「ほう……【断罪】に籠めてやった魔力が放散していたようだから来てみたら……面白いことになってるじゃないか」
可能な限り迅速に、蘇生しなければ。
始まりの時、降臨時。
下界で初めて受肉した肉体は死亡直後の孤児だった。神官になぶられ、腹に大穴があいていた。俺はすぐ治癒を施したが、孤児本来の意識……魂が戻ることはなかった。
血を吐く奇病で病死したと思われるラシェルも同様である。肉体は治せても、意識が回復しない。
それは脳と魂が別物であるからなのか、天使が受肉したためであるのか。
「分からない……が……やるしか、ない……!!」
光が増す。
時間をおけばおくほど、可能性は下がっていくのだから。
感情的な行動ではない。
打算的な行動だ。
ヴァルデを相手取るよりもエメリーヌを救うべきだという打算。貴重な味方。有力な情報源。
だから救うべきな⋯⋯はずだ。
彼女は身を挺して、俺を守ろうとした。会うときは常に手に触れないように警戒し、何かあればすぐに裏切ったかと疑い、即座に殺そうとまで考えるような俺のために、命をなげうった。
『ラシェルちゃんは、ともだち。エメリーヌの大切な、初めてできたともだち。『呪い』なんかじゃない』
友人だと? まったくどうして、そこまで俺に入れこめる。
エメリーヌは「教皇への復讐を手伝う」という口約束を信じ、俺へ一方的に協力している。
俺は一度たりともお前に何かを与えたことはない。これからも、そしてこの先も、目的のためなら協力関係など簡単に破棄するだろう。
俺はお前の思うような少女ではない。
平然と嘘をつき、取り繕った笑顔の裏で、利用価値を計算する。そんな嘘つきに、
「騙されて⋯⋯いるというのに、バカめ⋯⋯」
高密度のエネルギーが大気を震わせ、結界内に風を吹き荒れさせた。黒髪が暴れるようにたなびく。
「⋯⋯っ。厳しいな」
ラグナの肉体は死後しばらく墓の下に放置されていた。あのときは持っていた神聖力すべてをそそぎ込んで、肉体を完全蘇生させた。
冬の土葬ということもあり肉体はさして腐敗もしておらず、元の形を保っていた。治癒自体は綻びの修繕のようなものであり難易度は高くなかった。
だが今のエメリーヌの状態は、不味い。
火傷の域を超え、全身が激しく焼損している。肉はほとんど残っておらず、骨に真っ黒な皮が張りついているだけ。抱きかかえると、ひどく軽かった。
唯一、銀の腕輪だけが変わらぬ輝きを放っていた。
今の俺の持つ神聖力は前とは比較にならない。必要なエネルギー量だけで考えれば、少女ひとりの治癒など余裕で間に合う。しかしその操作は、過去になく精密に行わなくてはならなかった。
美女の声がした。
「不審なお前を焼き殺そうとしてエメリーヌに当たったときは肝を冷やしたが、裏切り者だったのなら問題はないな。安心だ。安心して殺せる」
ヴァルデは、俺が治癒に専念していることを理解しながら、結界に攻撃魔法をぶつけた。一撃で、表層にヒビが入る。
「っ、邪魔を……」
女に目を向ける余裕もなく、ありあまった神聖力を手当たり次第に撃ち出す。光線が森の上空に吹き荒れた。
「なんだこの魔法は。光属性の──知らん魔法式だな」
それをしのぎながら、ヴァルデは結界に攻撃をあて続けた。炎、氷、岩、光、闇、水、木……あらゆる属性の魔法が結界を破壊していく。俺はそのそばから新たな結界を展開する。
同時に治癒を進める。
脳のリソースは枯渇寸前だった。
「皇都も近いことだし、あまり派手にやりすぎるのもな。その目に見えぬ珍妙な障壁も無尽蔵ではあるまい。──私は無尽蔵だがな。削らせてもらうぞ」
神聖力は清浄な特性を持った単なるエネルギーにすぎない。適当にそそぎこんで、はい完治とはいかない。
破壊と再生ではかかる労力が違う。治癒をしたいのなら、相応の操作が要求される。全身の部位にムラなく染み渡らせ、それぞれに生命の最小単位として息を吹き返してもらう。
血管、臓器、筋肉、骨、血液、そして……。
別邸のメイド・マリーの娘コレットで人体実験したときのことを思い出せ。少女の身体の細胞ひとつひとつに至るまで解剖する勢いで、彼女の病を治したではないか。
光はさらに強まった。
より細く、小さく、正確に。
「む。そうか、【断罪】は完全に壊されてしまったのか。次の枢機卿が授かる神通力が変わることになるな。民にどう言い訳したものか」
ヴァルデの言葉が耳から遠のいた。
助ける。
救う。
救わなければならない。
この少女を。
俺のために命を捨てた少女を。
「生き返れ、エメリーヌ⋯⋯っ!!」
緻密な線が弧を描いて、少女と俺の身体を結ぶ。
白金が、夜の森を染めあげた。
□□□
「はぁ……はぁ……」
光のおさまった森に、俺はひとりで立っていた。
墨を流したような昏闇に、半欠けの月がかたむいていた。もう暖かな季節だが、まだ夜気は凍るものだ。
肩で息をする。力の残量は九割といったところ。消費した神聖力はわずかだったが、気力はすりへった。超越空間にいたころは、ここまで精神を一極に集中させることなどなかった。
ヴァルデは拍手した。
「まさかあの状態から回復魔法で蘇生とは……凄まじい腕だな。お前、教会に来ないか? 枢機卿待遇で歓迎するぞ」
銀髪の少女は無事、元の容姿を取り戻していた。静かに呼吸をして、横たわっている。
「それが本当なら、結界を解除してあなたの手を取りたいところですが……未だに攻撃魔法を展開したままのあなたを信用するのは難しいですね」
夜空に浮かぶヴァルデの背後には、無数の色彩が渦巻いていた。
「すまないな。一度起動すると撃つまで消せないのだ」
俺は影に合図を出した。
すっと男が滲みでる。
「エメリーヌを連れて逃げろ。皇都の邸宅には戻るな。あとで合流する」
「御意」
洗脳を受けた一座一門の男は裸の少女を虚ろな目で抱えて、影に溶けこんだ。
「影へ潜り、影を移動する《立溶潜隠》だな」
ワインレッドの瞳が赤く尾を引いた。
「勧誘も断られたことだし、情けは無用か」
ヴァルデから、周囲の景色が歪むほどの濃密な魔力が立ちのぼる。空を埋め尽くそうかという途方もない数の魔法が、地上に狙いを定める。属性が混沌と入り乱れるその情景は、まるで夢のようにきらめいていた。
「教皇には迷惑をかけるが、やはり派手にやらせてもらおう」




