28:なんと三年が経過
公爵家別邸、西翼の階段下。そこは昼間でも陽が届かず、冷えた湿気が石床に沈殿する場所だった。
黒髪の少女は、洗濯済みの織物を抱えてその影に足を踏み入れた。
「……?」
不意に、三つの人影が横合いからさえぎるように、通路を塞いだ。
一番背の高い年嵩のメイドが、少女の行く手を遮るように一歩前に出る。彼女は無遠慮な目で少女を値踏みし、尖った顎を突き出した。
「あら、こんなところで何をしているの。泥鼠が贅沢な布に触れて」
「何って……お嬢さまのお召し物の洗濯だよ?」
少女は足を止め、不思議そうに問い返した。その瞳には怯えよりも、純粋な疑問が浮かんでいる。
「はん。あんた……あんな忌み子にすり寄って、恥ずかしくないの?」
横にいた、そばかすのある若いメイドが、少女の肩を小突いた。その拍子に、一番上のシーツが石床に滑り落ちる。
「あ、ちょっと」
少女が短く声を上げ、反射的に手を伸ばした。
シーツを、三人目の小柄なメイドが、尖った靴の先で踏みつける。
「まだアタシたちが話してるんだけど? メイド見習いのくせに、古株だからって最近来たアタシらを見下してんの? 調子乗ってんじゃないよ」
「見習いだけど、あなたたちより働いてるよ。それより、足どけて。せっかく洗ったのに汚れちゃったじゃん」
「こいつ……」
年嵩のメイドが、手に持っていた雑巾を絞る。濁った灰色の水が、少女の頭上から、そして抱えていた白い織物の束へと、糸を引いてしたたり落ちた。
「ちょっと!?」
少女の黒髪が濡れ、額に張り付く。石床に広がった水が、彼女の膝を冷たく濡らした。少女は腕の中の織物を必死に庇うが、無情にも汚水は白さを塗りつぶしていく。
「何してるの! お嬢さまにすぐ持っていくって言ってあるのに──」
「はぁ? そんなのどうでもいいでしょ。『呪いの令嬢』に真面目に仕えてるあんたら親子がおかしいのよ」
「そうよ、あんたも呪いにおかされてんじゃないの?」
そばかすのメイドが、少女の背中を、壁の角に押し付けるように強く突いた。体が硬い石壁に当たり、乾いた音が響く。逃げ場のない角に追い詰められ、少女の視界を三人の冷嘲が覆った。
「あなたたちねぇ……」
まだ幼い少女がいよいよ呆れたという顔で首を振る。その態度が、かえって火に油を注いだ。
苛立ったメイドが、拳を振り上げ──。
「コレット? 洗濯は終わりましたか?」
背後から響いた鈴を転がすような声に、三人のメイドの肩が跳ねた。
「汗をかいてしまったので運動着から着替えたいのですが……」
ヴェールをかぶった黒髪の令嬢が、階段をしとやかにおりてきていた。
「……と、この状況は──」
水に濡れ、壁に押さえつけられた幼い女の子・コレットと、それを取り囲むメイドたち。令嬢は穏やかではない空気を敏感に察知する。
「げ、ラシェルじゃん。なんでこんなとこまで?」
「……行こうぜ。アタシらにまで呪いが伝染っちまう」
三人は気まずそうに吐き捨て、背を向けると、湿った石床を乱暴に蹴って歩き出した。ヴェールを被ったラシェルの存在などないかのように、その横を肩を並べて通り抜けようとする。
「なぜ許可もなしに立ち去れると思っているのですか?」
「…………」
無視して令嬢の脇を通り抜けるメイドたち。
令嬢はヴェール越しにため息をついて、腰に手をやった。次の瞬間、火花が散る。鞘から引き抜かれた鋼が、薄暗い廊下の空気を一閃した。
「ひっ……!?」
鋭い金属音が廊下に響いた。
「……あ……ぁ……あ……!?」
先頭のメイドの眼前で、長剣が石壁に突き刺さっていた。彼女の前髪が束になってぱさりと地に落ちる。鼻の頭に一筋の赤い線が走り、血が一滴したたった。
「な……な、なにすんのよあんた!!」
顔色を蒼白にした女が、恐怖と怒りとがないまぜになった心からの叫びを、目の前の少女に怒鳴りつけた。
「貴族令嬢に向かって大層な口の利き方ですね」
「はっ、貴族? 誰が? あんたなんか平民以下の存在じゃない」
「コレットに──私の専属使用人に暴力を振るっていましたね」
「そ……それが何よ」
「罰を与えます」
剣身がぎらりと光った。訓練用に刃先が潰されてはいるが、その重量と切っ先は、十分に人の肉を裂き、骨を砕く凶器となりえる。
「あ、アタシたちを雇ってるのは公爵さまよ? あんたごときにそんな権限ないわ!」
そばかすのメイドも追随する。
「文句があんなら、お父上に泣きついたらどう? あんたなんかビンタされて口を利くことも許されないでしょうけどね!」
だんだんと威勢を取り戻したメイドたちが、吐き捨てるように嘲笑を浴びせる。令嬢のヴェールの奥にある瞳が細められた。
「たしかに、あなたたちが職務を放棄しようとも、『呪いの令嬢』と私を罵倒しようとも、公爵家の人間はあなたたちを咎めることはないでしょう」
「はん、分かってるじゃない──」
年嵩のメイドが勝ち誇ったように口角を上げた。その薄い唇が、次の言葉を紡ごうと歪む。
しかし、ラシェルが突き刺した剣の柄に細い指をかけ、ゆっくりと横に引き抜いた瞬間、その笑みは凍りついた。
「ですが同時に」
石壁が削れる嫌な音が、静まり返った廊下に尾を引いて反響する。
「私が平民のメイドを数人斬ったからといって、それを咎める者もいないのですよ。家門を軽んじる無礼者に制裁を加えるのは貴族にとって当たり前であり、公爵家の人間はあなたたちの死を気に留めることもない」
ラシェルは、切っ先についた石粉を払うように剣を振るった。銀色の軌跡が宙を裂き、メイドたちの首筋を冷たい風がなでる。
「……っ」
先頭のメイドの喉が、ひきつった音を立てた。鼻の頭から流れた血が、石床の汚水に落ちて小さな波紋を作る。彼女たちの脳裏に、今の言葉の重みが浸透していくのが、その青ざめた顔色から見て取れた。
公爵家はラシェルを愛してはいないが、公爵家の権威を汚す平民を許すほど甘くもない。彼女たちの命は、床に散らばった濡れた織物よりも軽い。
「さあ、どうしました。反論はありませんか? 反論はそのまま、遺言となるかもしれませんが」
令嬢が一歩踏み出す。その靴音が、死刑宣告の鐘のように響いた。
小柄なメイドが、最初に膝を折った。ガタガタと震える膝が、自分たちがぶちまけた汚水の中に沈む。
「も、申し訳ございません! お許しください、お嬢さま!」
石床に額を擦りつける音が鈍く響く。続いて、そばかすのメイドも力なく崩れ落ちた。先ほどまでコレットを小突いていた手で、必死に自分のスカートを握りしめている。
「あ、アタシが悪かったです! 口が滑ったんです、どうか、命だけは……!」
最後まで立っていた年嵩のメイドも、ラシェルが剣を構え直した瞬間、糸が切れたようにその場に平伏した。彼女の額は、コレットが落としたシーツの、最も汚れた部分に押しつけられている。
「……コレット」
ラシェルが静かに名を呼ぶと、それまで淡々と事態を眺めていた黒髪の少女が、少し嬉しそうに濡れた前髪を払いながら一歩前に出た。
「はい、お嬢さま」
「この者たちは、あなたが洗濯した織物を汚しました。そして、私への不敬を働いた。……処分はどうしますか?」
「そうですね。お嬢さまの剣を汚すまでもないと思います」
コレットは、足元に広がる灰色の汚水を見下ろした。
「ただ、この汚れは酷い。……彼女たちには、今からこの廊下すべてを磨き直してもらうというのはどうでしょう。もちろん、この汚れてしまった洗濯物も、洗い直しです!」
「……聞こえましたか? 明日の朝までに、この西棟の床すべてを鏡のように磨き上げなさい。一人でも逃げ出せば、その首を公爵家に差し出したものと見なします」
黒髪の少女は剣を鞘に収める。カチン、という硬質な音が合図だった。
「は、はい……! やらせていただきます! すぐに、すぐに!」
公爵家より支給された貴重なメイド服が汚れていくのも構わず、彼女たちはただ必死に、自分たちが作り出した汚れを両手で掻き集め始めた。
□□□
ラシェル・ド・レントシュミット。
十五歳。
ということで、俺が下界に降臨し、ラシェルに受肉してからおよそ三年が経過した。
「あの、ありがとうございます、お嬢さま。でも、わたしなんかのためにあんな役回りをしちゃダメです。あんなの、ますます嫌われちゃうじゃないですか……」
「あの手合いはやりすぎなくらい脅さなければ、いつまで経っても改めませんから。コレットを守るためです」
「……ふふふ。そうですか。わたしを守るためですか……なら仕方ないですね!」
嬉しそうに笑うこの少女の名はコレット。
三年前に病気をひそかに治療してやった、マリーのひとり娘である。子どもの成長というのは早いもので『おじょーさま!』とはしゃいで、たまに寝室に遊びに来ていた幼女は八歳になり、少し大人びた言動をするようになっていた。母親のマリーより、少し知的な雰囲気がある。
自発的に読み書きを学び、暇さえあれば別邸に放置された歴史書や神学書を読んでいるらしい。幼いのに勉強熱心なことだ。本人曰く俺に触発されてのことだそう。
まったく、こんなに健気で小さな子どもを寄ってたかってイジメていたあの新入りメイドたちには呆れてしまう。
「それより、ごめんなさい! お着替えがいま、なくって……どうしましょう、お母さんなら替わりのお召し物に何か心当たりあるかな……」
「大丈夫ですよ。あの方たちも反省したでしょうし、きっとすぐ洗って、午後には乾いているはずです。最近は日差しも強くなってきましたから」
俺は私室の前で立ち止まり、コレットと別れた。
「剣の練習、疲れたでしょうしゆっくり休んでください!」
「えぇ」
閉まる扉。静かになった部屋でベッドに腰かける。
「……そろそろ連絡が来る頃だと思うが……」
窓の外をのぞく。門の付近に普段と変わった様子はない。
「まぁ数日の誤差は仕方ない」
──この三年、さまざまな事項に時間を費やした。
第一に『天使』としての活動。
村をまわって無償で病人や怪我人を治癒したり、魔物の群れを蹴散らしたり。未だ、あの【分霊】の老紳士ファルマン以降教会からの接触はないが、「カアウラス神の使徒」として活動を広げ続けている以上、そのうち何らかのアクションがあるはずだ、と踏んでいる。
第二に鍛錬。
俺は試行錯誤をかさねた末にとある方法でラシェルの神聖力の総量を大幅に増やし、また、それを扱う技量を夜な夜な大森林で魔物相手に鍛えた。同時に、ラグナの操作や、意識の切り替え速度向上も図り訓練を続けている。
第三に教会勢力の内情の把握。
【教化】の枢機卿エメリーヌの協力もあり、進展はそこそこである。ただカアウラス神に関する、神話に語られること以上の情報の収集は難航している。地道に進めるしかない。
教会中枢に食いこむエメリーヌでさえ「カアウラス神が実在する」という類の話を耳にしたことがないのだ。何か知っているとしたらそのさらに上。教皇や……あるいは皇帝クラスとなるのかもしれない。
そして第四に、「皇立学園」。
俺がわざわざ別邸で、堂々と剣技の練習をしていることにも繋がってくる。
騎士団、《特殊遺甲総局》、カアウラス神教会。
皇立学園と密接な関係にある組織──つまるところ卒業生の進路として選ばれることの多い組織である。俺はそこで、神官を目指す。
皇都の中央。学園は大聖堂と隣り合って建っていることからも分かるとおり、教会との関係は特に深い。在学中にも何かしら有益な動きができる可能性もある。
……ちなみに剣の腕についてだが、ズバリ言って、弱い。
剣の指南役がおらず独学で訓練しているため、神聖力による肉体操作頼みのパワープレイが限界なのである。ただ計画のうえでは、それでも十分。
基礎の型をようやくマスターし始めたくらいの習熟度で、そこらの剣術道場に通ってる男児に負ける程度の弱さだが、問題はない。ないったらない。
まぁそれぞれについて詳しいことは追々だ。
今はとある知らせを待っている。
慌ただしい足音。聞き慣れない、ガチャガチャとした物々しい金属音をともなった重たい足音である。マリーでもコレットでも、今ごろ廊下に這いつくばっていることであろう新入りメイドでもない。
戸が乱暴に叩かれる。
「こ、公爵さまより、お呼び出しです……! すでに迎えの馬車が来ておりまして、その、今すぐ来るようにと……」
門兵の男の声。
窓を見ると、豪華な馬車が一台、門を抜けて庭園に止まるのが見えた。上品な褐色の車体に刻まれているのはレントシュミット公爵家の家紋。
「ただいま参ります。それからメイドに至急、寝間着ではなく外行きのための着替えを持ってくるようにと──」
三年間の動きが実を結ぶときが来た。
取りあえず、最も近くの問題から片づけるとしよう。




