11:狂人
勢いよく振り下ろされた拳は、ラシェルの腹を鋭く打ち抜いた。
「⋯⋯!?」
華奢な少女の体は簡単に持ち上がり、吹っ飛ぶ。ベッドを越えて、窓に激突する。
粉砕されたガラスの破片が柔肌を切り裂いた。鮮血が背中から滴る。白いワンピースの寝間着がじんわりと赤く染まった。
⋯⋯おいおい。
この男、公爵令嬢を殺す気だ。
白昼堂々押し入ってきた目立ちたがり屋の賊か、ド派手好きな暗殺者か? どちらであっても職業適性ゼロなので、転職をおすすめする。
「はぁ⋯⋯さっきから何を黙っている? 久しぶりに顔を合わせた《《兄》》に、挨拶もできないか。魔法ばかりか言葉までも使えなくなったようだな」
出合頭に腹パンしといて挨拶もクソもあるか。⋯⋯っていや、重要なのはそこじゃない。
⋯⋯⋯⋯兄?
兄⋯⋯????
もしやコイツ「明日の夕刻訪問するよ」と伝言を送ってきたあのアドルフか。
整った目鼻を引き立てる輝かしい銀髪が特徴の、細身の美青年。
なるほど、髪色こそ違えど、顔立ちはたしかに似ている。明日来るよと言っておきながら即日やってきた理由は分からんが。
「失礼いたしました、アドルフ兄さま。此度は別邸までわざわざ足をお運び――」
腰を折り淑女の礼を示した俺に、アドルフは再び、腕を振り抜いた。兄の拳が腹に突き立つ。
「がっ――」
肺の空気が一息に吐き出される。今度は部屋の壁へ、背を強打する。
下から突き上げるように繰り出された殴打はやすやすと、少女の肉体を内側から破壊した。
すでに骨が何本も折れている。
治癒するも結界でガードするも簡単だが、ここは一旦様子見だ。
「無才の悪魔が! お前のすべき挨拶とは! 貴族の礼ではない!」
壁へ縫い留めるように、男は拳をラシェルの腹へ食い込ませた。
「生を懺悔しろ! お前は! この世に生まれ落ちた罪を、俺に懺悔しろ!」
憎しみに満ちた目が、至近でカッと見開かれた。
「貴族たる者が魔法一つ操れぬとは、ありえぬ! 天恵に背を向け、母を殺して生まれ、あまつさえ黒髪で、唯一の値打ちであった顔には、傷痕だと!? お前は、懺悔する以外に、この俺に対して贖罪の途を持たぬ!」
「兄さ……ま」
苦悶の声くらいは上げておこう。取りあえず、ヴェールが取れないようにだけ注意しなくては。
「なぜ自害しない? なぜ公爵家の威光を汚しながら生きていられる?」
「も、申し、わけ……」
「懺悔で済むと思うか! 自害しろ! そうだ、懺悔が何になる、贖罪とは命をもってすべきものだ。呪われた妹という、羽虫のように俺の後をついて回る風評も、過去のものとなる! 《遺甲総局》がなんだ! 調査したところで自害なら文句も言えまい!」
男は狂ったように息を乱した。
「自害だ、今すぐにだ! 今すぐに世界から消えろ!」
ラシェルとなってからのわずかな時間に得た兄の評判は、秀才の好青年の一言に集約される。眉目秀麗で、氷魔法に秀で、剣の腕も認められていて、社交界での立ち回りも完璧。
しかし、ラシェルの日記帳に記されたアドルフ・ド・レントシュミットという人間は、表の姿とはかけ離れていた。
「手伝いをしてやる。命を絶つのなら、首吊りがいい。貴族令嬢が縊死とは、素晴らしい死にざまだ。さぁ、今、縄を結んでやる――」
彼はこれまでにも、数え切れないほどの回数、幼い妹を手にかけようとしている。
「縄はどこだ? なぜ用意していない? 無才も高じれば、自死すらままならないか。もういい、俺が首を絞めてやる」
だが、それが成し遂げられたことは一度もない。
「俺自ら、お前を扼殺して、や、る…………」
アドルフはピタリと動きを止める。
俺の首にかけた指が、一本、また一本と外れていく。
「……あぁ。そうでした。俺としたことが我を忘れていました。しまったな……」
アドルフの目に理性が宿っていた。
憎悪を狂熱で彩った猛々しい高揚が、鎮静している。
「《総局》が……いや、《総局》が出ばるまでもなく、俺は殺人犯になる。妹殺しの汚名は、呪われた妹の存在以上に、俺を覇道から遠ざける……」
アドルフは乱暴に、妹の身体を放した。
少女は床を転げ、鏡台を揺らす。積んであった厚い歴史書が重力に引かれて宙へ投げ出され、少女の頭蓋を強く打った。
今さらひとつ怪我が増えたところでという話だが、踏んだり蹴ったりだ。
額から血が伝うのを横目に、俺は兄の様子を窺う。
「もっともです。……そうでした。申し訳ありません」
アドルフは会話していた。
病的な興奮から一転、落ち着き払った顔で、虚空へ顔を向け、何度もうなずいている。
これを⋯⋯コイツは毎回やっている。
日記に描かれた兄アドルフは、妹に暴力を振るい、死に追いやる寸前で踏みとどまり、うわごとをつぶやく狂人だった。何年も何年も、懲りずにたびたび別邸を訪れてはこの奇行を重ねているらしいのだ。
そもそも会話相手は誰なのだ。なぜ宙空に向けて話している。なんらかの手段によって誰かと通信しているという可能性はある。
⋯⋯⋯⋯普通に頭がぶっ飛んできるようにしか見えないが。
目の焦点がもうおかしいのだ。気味の悪いことに左右で別々の方向を見ているし、口元からは少しヨダレも垂れている。これで異常を疑うなというのが無理な話だ。
「止めてくださりありがとうございます、母上。えぇ、私も愛しております」
アドルフは長々とぶつぶつ喋ったあと、ようやく一人芝居を終えた。
するとなんと、彼はこちらに一瞥もくれることなく踵を返し、そのまま部屋を出ていったのである。
ひとり残される、満身創痍の俺。
荒れた部屋に静けさが戻った。
まるで嵐の過ぎ去った後のような感覚だった。
「それにしても⋯⋯"母上"か」
最後に彼の言ったセリフが、気にかかった。
レントシュミット公爵に夫人はいない。
アドルフとラシェルの母は娘の顔をぶっ裂いた後に狂死しているし、ゲルトを産んだ後妻も数年前に事故死。もうこの世にはいない。
アドルフに「母上」と呼べる相手がいるとしたら、婚約者の母親──義母くらいのものだ。
だが、義理の母に「私も愛しております」などと言うか?
結婚前だから正式に家族となっているわけでもない。「義母と禁断の関係です」と言うのでもない限り、考えにくい話だ。
何か裏があると見るのがいいのだろうか。それともただの精神異常者の闇として放っておくべきか。
ただ仮に裏があるとしても、それは「魔法」ではないだろう。今のところの逆さ吊り読書の成果によると、精神に干渉するような魔法はこの世界の魔法体系に存在しない。
であるとしたら魔法具か、その上位互換である古代の遺物かとなる。
「⋯⋯いや。あるいは、アレの可能性もあるか」
枢機卿がその身に宿すという──神通力?




