9:曇り濁る瞳(少女視点)
「痛っ」
雪のつもる草原。
轍の刻まれた馬車道を、一台の幌馬車がのどかに進んでいる。見渡す限り雪。雪。雪。日光の反射で目が痛くなるほど銀世界だ。
馬車の荷台では、数人の男女がガタガタと揺られている。わたしはその中で「痛っ」と叫び声をあげた馬の操り手のおじさんに声をかける。
「御者さん、怪我したんじゃない? ⋯⋯大したことないって? でもほら、血が出てる」
わたしは御者の手を両手で包みこむ。
「ちょっと待ってね⋯⋯《小光軽癒》」
「お⋯⋯? おぉ⋯⋯ぉぉぉおおおっ!?」
素っ頓狂な歓声があがる。
車輪が石を乗り越えたときの衝撃で割ってしまった爪が、みるみると元の形にくっついたのである。御者は興奮して、荷台の同乗者に傷口を見せる。爪は、血がこびりついているだけで、すっかり完治していた。
「すげぇな嬢ちゃん。お貴族さまみてぇじゃねぇか」
「魔法使える平民なんて、平民の誇りだよ。嬢ちゃんはほら、あそこ、皇立学園に行くんだろ? 頑張りなよ」
「えへへ⋯⋯、うん、頑張るね」
嬉しそうにはにかむ少女。
夢への第一歩。
早くラグナエルに報告したい。
帰るのが遅くなっちゃったな。
日帰りのつもりが数日の旅行になってしまった。
馬車が村に到着すると、完全に停止するのも待たず、わたしは荷台から飛び降りた。
「御者さん、ありがと!」
急く気持ちを抑えながら、ユノは家へ駆け出す。玄関の扉を開け、居間を抜けた。
いつものように、そこには酒に酔った父親が寝ている。
「ただいま、お父さん」
返事はない。これもいつものことだ。父とまともに会話できなくなってから、もう何年が経っただろうか。
「お父さん、わたし皇都の学園に通うことになったの。貴族令嬢がいっぱい通ってる、あの名門だよ。後で詳しくお話しするね」
それでもいつか、酒に溺れる前のやさしいお父さんに戻ってくれる⋯⋯そう信じて、変わらず話しかけ続けている。
でも、今はそれ以上に、会いたい人がいるのだ。
「ラグナエル! ただいま!」
廊下を抜けて、物置の扉を勢いよく開けた。
だが──そこには誰もいない。
「あれ。朝だし、まだ寝てると思ったんだけど⋯⋯薪割りかな?」
古びたベッドからシーツがだらしなく垂れさがっている。
わたしは物置の窓を開けて、窓枠を飛び越えた。そのまま庭をのぞく。
薪と斧が野ざらしのまま転がっている。
「あはは、ラグナエル何してるの。せっかく切った薪に雪が積もってるじゃん」
切り途中で用を足しにでも行ってしまったのだろうか。
でも、今ならまだあまり湿ってないかも。
「まったくもう⋯⋯」
散らばった薪を拾い集める。
「⋯⋯あれ」
手に取った瞬間、違和感を覚える。
薪は、ラグナエルが切ったにしては不揃いだった。彼は日々筋力トレーニングを重ねていて、薪割りの技術もそれなりに向上していたはずだ。
お父さんが切ったのだろうか。
「⋯⋯?」
ここ一ヶ月、暖炉に木をくべるのはラグナエルの仕事になっていたというのにお父さんが薪割りを⋯⋯? あのお父さんがわざわざ、自分で?
「⋯⋯」
木材は完全に凍りついていた。いびつな断面は奥まで完全に湿っていて、使いものにならなさそうだ。数日前に切ったもののようにも見える。
「⋯⋯⋯⋯」
あれ⋯⋯。
なんでだろう⋯⋯。
「⋯⋯おーい、ラグナエル? 近くにいるー? ユノちゃんが帰ってきたぞー?」
なぜか、動悸がする。
「驚かせようとしてるのかな。物陰から急に飛び出してきて、サプラ〜イズ! みたいな」
鼓動が少しずつ速くなっていくのを、わたしは無視しようと努めた。
今まで明るかった空に、黒い雨雲が現れたような──漠然とした不安が急速に広がるのを、わたしは無視した。
「⋯⋯きっと雪下ろしを手伝ってるんだ。⋯⋯そうだよ、ラグナエルは最近村に馴染んできてたし、仕事を頼まれて手伝ってるんだ⋯⋯」
呟きながら、わたしは無意識に駆け出していた。
「ラグナエルー! いるー? ラグナエルー?」
家々の間を抜けて、村の外周に出る。彼はたまに、そこで横になって空を見上げていた。
だが、そこに人影はない。
「おかしいな⋯⋯もう村を一周しちゃったよ。やっぱりどこかに隠れてるのかな⋯⋯」
仕方なく家の方へ引き返す。
胸がバクバクと脈打ってうるさかった。
「ラグナエルー! かくれんぼのつもりー?! そろそろ出てこないとわたし、怒るよー!」
掴みどころのない不安。
いったい何だというのだ。
わたしは何に怯えている。
何を、こんなにも恐れている。
何も不安になることなどないだろう。
枢機卿に、自分の押し売りに成功したよ。学園に行けるよ。神官になれるんだ。そんな話をして、笑い合って。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯ここにも、いない⋯⋯」
そうだ。それから、彼の夢も聞きたかったんだ。
将来何を目指すのだろうか。彼ほど活力に満ちあふれた人間の夢。きっと壮大で素敵な、あっとわたしを驚かせてくれる夢に違いない。
「はぁ⋯⋯っ、はぁ⋯⋯っ。──あっ!!!!」
家の裏。
庭から回りこんだところに、ぼさぼさの黒髪がのぞいている。
よかった、そこにいたんだ。
探し回ったんだぞ、もう。村中走って、ふらふらだよ。
「あ──あぁ」
ラグナエル、ただいま。
何してるの、そんなところで。
「あぁぁ────」
雪の上で寝てたら、風邪引いちゃうよ。
ねぇ、ラグナエル。
ねぇってば──。
「ぁぁあああああ⋯⋯あぁあああッ──!!!!」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
冷たい。
細い身体の、全身に雪が積もっている。
息をしていない。
髪が凍っている。
「ぁ、ぁ⋯⋯《中輝重癒》」
どうして。なんで。
「《中輝重癒》、《中輝重癒》、《中輝重癒》⋯⋯!」
なんで、ラグナエルが⋯⋯!!!!
──死んでる、の。
「《中輝重癒》《中輝重癒》《中輝重癒》⋯⋯っ!」
いや、本当は答えなんて分かりきっている。
お父さんが追い出したのだ。お父さんは自分を貴族の末裔なのだと常日頃言っていた。
魔力があり、魔法が使えるのだと。そこらの平民とは格が違うのだと。孤児なんて、自分と比べたらまるで生きる価値などないのだと。
「《中輝、重癒》⋯⋯うッ。かはっ⋯⋯」
実際は、魔法を使えたのは娘のわたしだけだった。魔力は隔世遺伝で、父には受け継がれなかったのだ。
それは貴族であった祖父が、平民の女と結婚して生まれたのが父であったからに他ならない。そういえば、父が酒乱と化したのは、わたしに魔法の才があると知ってからであった──。
「わ、わたしのせいだ⋯⋯」
指が震える。
「わたしのせいで、ラグナエルが死んだ⋯⋯」
吐き気が胃の奥からせり上がってきて、わたしは地面に吐いた。ぐわんぐわんと視界が歪む。
「お父さんがラグナエルを追い出すかもって⋯⋯考えれば分かったはずなのに、わたしは⋯⋯」
自分のことに浮かれて、考えもしなかった。
わたしの、わたしのせいで。
「うっ、おぇええ⋯⋯」
真っ白な雪に吐瀉物が飛び散る。
ラグナエルの凍死体を抱く。
痛いくらいに冷たい身体。
「どうした? 大丈夫か嬢ちゃん?」
止まらない嗚咽を聞きつけて、村人が集まり始めていた。心配そうな顔でわたしを案じている。
「アンタひどい顔色だよ、いったん落ち着きな」
わたしじゃないよ。
ラグナエルを気にしてあげてよ。
なんで誰も助けてあげなかったの。
そんな他責の念を、わたしは握りつぶす。
違う。悪いのはこの人たちじゃない。わたしだ。
「ゲホっ、うッ⋯⋯」
わたしの無責任さが──ラグナエルを《《殺してしまった》》。
わたしがラグナエルを、想い人を殺してしまったのだ。




