夢見草
「あ」という言葉が口から出ていたのかどうかは定かではなかったけれど、顔は明らかに“あ”という表情をしていたかもしれない。
だけど───会議室から出て振り返った拍子にぶつかりそうになったその相手が、相手だったから仕方ない、と僕は思う。
「お疲れさまです」
はにかむような微笑みを浮かべて軽く頭を下げた彼女がそう声をかけてきたことに、僕は驚きながら慌てて頭を下げた。
色素が薄い栗色の長い髪を品よくひとつにまとめ、白く透き通った肌。薄ピンクに染まった頬。瞳は大きく澄んでいる。
まるで女優のような透明感と輝きを放つ彼女を、うちの社内で知らない男はいない。
───佐藤櫻。
まさに、名を体現したような美しさと儚さを兼ね備える女性だ。
彼女とは違う部署だし、そもそも何の接点もない僕はこんな軽い挨拶しか交わしたことがなかった。
それも半年に一回あれば良い方だ。
だから今日、心の中でガッツポーズしたのは言うまでもない。
「あ、溝口さん。」
そのまま会議室を後にした僕の背中を可愛らしい声が呼び止めた。
一瞬、誰の事なのかも分からなかった。
佐藤さんが僕の存在と名前を知っているだなんて、夢にも思わなかった。
───今日、二度目の奇跡が起きた瞬間だった。
「この資料、忘れてませんか?」
「────あ、本当だ。ごめん助かったよ」
慌てて手元を確認してそう答えると、ホッとしたように微笑んだ佐藤さんが言った。
「良かった・・・」
資料を忘れた人が見つかって良かった───、の“良かった”だって理解している。それなのに、頭はイカれていて。
勝手に期待している自分が、アホくさいとさえ思えた。
美しさに見とれて、まるで譫言みたいに「ありがとう」と手を差し伸べた僕は、彼女から資料を受け取ろうとした。
─────その時。
「溝口さん、」
「はい?」
「覚えてないかもしれませんが、私────」
夢のような話が、いや、夢の中にいるとしか思えないような話が続いて。
これが現実だと、思えるはずがなかった。
────どうやら僕は彼女が入社したばかりの頃、彼女を助けたことがあったそうだ。
「覚えて・・・・ないですよね」
「あ、ご、ごめん」
「いえ、」
彼女が長い睫毛を伏せがちに、微笑んで言った。
「これから、覚えてもらえるように努めます」




