まだ何とかなる、という言葉
翌朝、エレノアは自室の机に向かい、フォスター家で使っている帳簿の形式を、簡単な手引きにまとめる作業から始めた。
難しいことではなかった。月ごとの収支を、収穫・仕入れ・人件費・雑費に分けて記録するだけの、単純な仕組みだ。だが改めて紙に起こしてみると、当たり前だと思っていたやり方にも、工夫していた点がいくつもあることに気づいた。項目の順番、締め日の決め方、前年との比較欄。誰かに説明するために書き出すことで、初めて見えてくるものがあった。
書きながら、エレノアは自分の手元にある五年分の帳簿を、改めて開き直してみた。父の字で始まり、途中からエレノア自身の字に変わっている。いつの間にか、この作業は自分の役目になっていた。誰かに頼まれたわけではなく、必要だからそうしてきただけだった。
手引きが一通り形になると、実際の記入例を一枚添え、簡単な礼状を書いた。文面に迷ったのは、どこまで踏み込んだ言葉を書いていいのか分からなかったからだ。あくまで実務的な範囲に留めるべきだと思い直し、簡潔な礼と、参考になれば幸いだという一文だけを記した。
使いの者に託して、ヴォルグレイブ卿の滞在先へ届けさせた。返事はその日のうちに届いた。
『さっそくお目通しいたしました。ここまで整理された形式は、うちの領地にはありませんでした。特に、前年との比較欄は、来季の判断に大いに役立ちそうです。感謝申し上げます』
短い文面だったが、社交辞令だけで済ませていないことは、内容の具体性から伝わってきた。どの部分が役立つか、どこが参考になったか。抽象的な礼の言葉ではなく、実際に読んで考えた跡が残っていた。
エレノアはその手紙を、手帳の間に挟んだ。誰かに贈った知識が、こうしてきちんと受け取られる感覚は、思っていたより心地よいものだった。セドリックに何かを教えたり、任されたりするときには感じたことのない、静かな手応えだった。
もっとも、これはあくまで実務上のやり取りに過ぎない。エレノアは自分にそう言い聞かせた。相手は遠縁の辺境伯であり、自分は婚約者のいる身だ。行き過ぎた感傷を持ち込む必要はない。そう思いながらも、返事を書く手を止めて、しばらく窓の外を眺めている自分に気づいた。
同じ頃、式典の日取りをめぐる問題は、思わぬ形で動き出していた。
父が社交の場で、ラングフォード侯爵と顔を合わせた際、何気ない世間話のつもりで式典の準備の進み具合を尋ねたところ、招待客の一人から、モンド男爵家の快気祝いが同日にあることが耳に入っていたという。侯爵はその場で顔色を変えたらしい。
「侯爵は、初耳だったようだ。息子から何も聞いていなかったと」
夕食の席で、父がその経緯を話した。エレノアは黙って耳を傾けた。セドリックには、うまく伝えると言われてから、すでに十日近くが経っている。
「侯爵は、その場でずいぶんお怒りだったそうだ。両家の顔合わせに関わる話を、なぜ今まで黙っていたのかと」
「セドリック様は、何と」
「まだ何とかなると思っていた、というような返事をしたらしい。侯爵はそれ以上、詳しくは話してくださらなかったが」
エレノアは、まだ何とかなる、という言葉に覚えがあった。自分に向けても、同じような言葉を、もう何度も聞かされてきた。
「お前には、辛い思いをさせているな」
父が不意にそう言った。エレノアは驚いて顔を上げる。
「私は、何も」
「いや。式典の準備も、日取りの調整も、本来ならセドリック君がもっと動くべきことだ。それをお前が一人で背負っている」
父の言葉には、日頃の彼らしくない率直さがあった。エレノアは何と答えていいか分からず、ただ小さく首を振った。
「私にできることをしているだけです。それに、嫌々というわけでは」
そう言いながらも、その言葉が完全な本心かどうか、エレノア自身にもよく分からなかった。
「侯爵は、日取りを動かせないとお考えのようだ。招待状はもう半分近く出してしまっているし、式次第の都合もある」
「では、モンド男爵家の集まりの方が」
「そちらは家族的な集まりだから、日をずらすのは容易いだろうと。侯爵はそうお考えのようだが……」
父はそこで言葉を切り、少し困ったように眉を寄せた。
「モンド男爵家にとっては、父君の快気祝いだ。軽く扱われて良い話ではない」
その言葉に、エレノアも同意した。どちらが動くべきかを、単純な家格の差だけで決めるのは、あまりに乱暴な話に思えた。
翌日、セドリックが屋敷を訪ねてきた。彼の表情には、これまで見たことのない硬さがあった。いつもの、悪びれない笑みは影を潜め、代わりに、どこか落ち着かない様子で椅子に腰を下ろした。
「父から聞いたと思うけど……式典の日取りのことで、僕もようやく本腰を入れて動くことにした」
「良かったわ。それで、どうなりそうですか」
「実は、両方に顔を出そうと思っている」
エレノアは、思わず彼の顔を見つめ直した。
「両方、というのは」
「式典の前半に出て、挨拶回りを済ませたら、途中でリリアーヌのところに顔を出す。式典は午後からずっと続くわけじゃないし、要所さえ押さえておけば、後半は父上に任せても問題ないだろう」
その提案は、一見すると両方への義理を果たす、折衷案のように聞こえた。だがエレノアの中には、すぐには言葉にならない違和感が広がった。
「式典は、私たち二人の婚約を披露する場です。あなたが途中で席を外すと知れば、招待客はどう思うでしょうか」
「そこまで大げさに考えなくても。少し席を外すだけだ。エレノアがちゃんと最後まで務めてくれれば、それで十分だと思う」
「父上は、何と仰っているの」
「……まだ、この案は話していない。まず、エレノアの意見を聞いてからにしようと思って」
その言い方に、エレノアは奇妙な違和感を覚えた。父親の許しよりも先に、自分の同意を取り付けようとしている。まるで、自分さえ頷けば、この計画が正式に動き出すとでも思っているようだった。
その言葉の中に、当然のように含まれている前提に、エレノアは気づいた。自分が最後までその場に残ることは、疑いようのない前提として扱われている。
「……分かりました。父上たちとも、よく相談してくださいね」
それ以上、強く言い返す言葉を、エレノアは持たなかった。まだ日取りも正式には固まっていないし、実際にその日が来たとき、彼がどう動くのかも分からない。今から結論を急ぐことに、意味はないように思えた。
セドリックは帰り際、玄関先で少しの間、立ち止まった。
「エレノア。……もし僕が、いつも通り勝手だと思ったら、そう言ってくれていいんだ。今までも、そう思うことはあっただろう」
思いがけない一言だった。これまで、彼の口からそんな言葉を聞いたことはなかった。だがエレノアが何か答えるより先に、セドリックは照れくさそうに笑って、話を打ち切ってしまった。
「なんて、柄にもないことを言ったな。とにかく、日取りのことは僕がちゃんとするから」
その背中を見送りながら、エレノアは今の一言の意味を測りかねていた。反省の言葉なのか、それとも、ただその場をやり過ごすための軽口なのか。判断がつかないまま、馬車は走り去っていった。
セドリックが帰ったあと、エレノアは自室の窓辺に立ち、手帳を開いた。
『セドリック様、式典とお祝い、両方に顔を出す方針。式典は前半のみ出席の意向』
一行書いてから、少し迷って、その下にもう一行加えた。
『「最後まで務めてくれれば十分」――その言葉の意味を、まだ考えている』
窓の外では、庭師が冬支度のために木々の剪定を始めていた。式典の日まで、まだひと月近くある。だがエレノアには、その日が来るのが、少しずつ現実味を帯びて近づいてくるように感じられた。
セドリックの最後の一言も、まだ心のどこかに引っかかったままだった。今まで通り勝手だと思ったら言ってくれ、という言葉。それを口にできたということ自体は、これまでの彼にはなかった変化なのかもしれない。だが、変わろうとする気持ちと、実際に変わることの間には、まだ大きな隔たりがあるように思えた。
その晩、ガレスから二通目の手紙が届いた。今度は、実際の帳簿の一部を写したものが同封されており、記入の仕方について、いくつか質問が書き添えられていた。丁寧な字だったが、装飾のない、実用一辺倒の筆致だった。
質問の一つは、季節ごとの収支の締め方についてで、もう一つは、複数の担当者が記録をつける場合の書式の統一の仕方についてだった。どちらも、実際に手を動かしている人間でなければ出てこない、具体的な疑問だった。
エレノアは早速、返事の下書きに取りかかった。書きながら、セドリックとの会話で残った小さなしこりを、少しの間だけ忘れることができた。ペンを走らせている間は、式典のことも、両家の思惑も、頭の隅に追いやられていた。
書き終えた返事を封筒に収めながら、エレノアはふと、この数日で自分が誰の言葉を一番信じられるようになっているかを考えた。答えは、まだ会って二度しか話していない相手の名前だった。その事実に、自分でも少し戸惑いを覚えずにはいられなかった。




