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幼馴染ばかり優先する婚約者はいりません。私は辺境伯と静かに暮らします  作者: ローナ


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初対面、それぞれの当たり前

ヴォルグレイブ辺境伯ガレスが到着したのは、午後も遅い時刻だった。


朝から降ったり止んだりしていた雨は、昼過ぎにようやく上がり、玄関先の敷石が濡れたまま光っていた。使用人たちは朝から何度も出迎えの準備を確認し、エレノアも普段より念入りに身支度を整えた。会ったこともない相手を迎えるにあたって、どの程度の格式が必要なのか、勝手が分からなかったせいもある。


馬車が正面に停まると、まず御者が飛び降り、次いで一人の男が降り立った。玄関先に迎えに出たエレノアは、思っていたよりも簡素な旅装の男を見て、少し意外に思った。北の辺境を治める貴族と聞いて、もっと重々しい装いを想像していたが、彼が纏っていたのは、旅慣れた者らしい実用的な外套一枚だった。装飾らしい装飾もなく、ただ動きやすさを優先したような身なりだった。


「お招きにあずかり、感謝します。ガレス・ヴォルグレイブです」


低く、落ち着いた声だった。差し出された挨拶に、エレノアも礼を返す。


「エレノア・フォスターです。遠いところを、ようこそいらしてくださいました」


「道中は思ったより早く進みました。無理を言って早めに到着してしまい、申し訳ない」


無理を言って、と彼は言ったが、実際には約束の刻限より少し前に着いただけだった。それを律儀に詫びる姿勢に、エレノアはかすかな驚きを覚えた。予定より遅れることには慣れていたが、早く着いたことを詫びられるのは、初めての経験だった。


応接間に通されると、父が待っていた。二人は初対面の挨拶を交わし、しばらくは天候や道中の話で場をつないだ。だが本題に入ると、父の表情が少し柔らかくなった。


「亡くなった妻の姉が、貴殿の家に嫁いだと聞いている。……古い話だが、覚えておいでか」


「はい。屋敷の書庫に、当時の書簡が何通か残っておりました。今回、うかがうにあたって、一つお持ちしました」


ガレスは懐から、丁寧に包まれた小さな包みを取り出した。中には、色褪せた一通の手紙が入っていた。


「私の祖母が、フォスター家に嫁いだ姉君に宛てて書いたものです。返事が届かなかったのか、下書きのまま書庫に残っていました。お渡しした方がよいと思い、持参しました」


父は震える手でその手紙を受け取った。差出人の名も、宛先の名も、遠い昔に亡くなった人々のものだった。エレノアは、その手紙の存在を今初めて知った。母からも、誰からも聞いたことのない話だった。


「……ありがとうございます。こんな形で、姉の生きた証に触れられるとは思っていませんでした」


父はしばらく手紙の文面に目を落としていた。差出人が体調を崩していた時期の見舞いの言葉や、当時の北の天候について記した、他愛のない内容だったという。だが父にとっては、会ったこともない義姉の人となりに触れる、初めての機会だった。


「姉は、あちらでどのような暮らしを?」


「詳しくは私も、祖母の代からの言い伝え程度しか存じません。ただ、領民には慕われていたと聞いています。冬の間、村を回って布や薬を配っていた、と」


「……そうですか」


父の声が、少しだけかすれた。エレノアは、初めて聞く伯母の話に、静かに耳を傾けていた。


「お役に立てたなら、何よりです」


ガレスの言葉は簡潔で、余計な感傷を付け加えることもなかった。だがその一つ一つの動きには、無駄がなく、誠実さのようなものがにじんでいた。


茶が運ばれてくると、話題は自然と両家の近況に移った。父が式典の準備の話をすると、ガレスは静かに耳を傾け、時折短く相槌を打った。セドリックのように話を遮ることも、上の空になることもなかった。


「エレノア嬢が、式典の準備を取り仕切っておられると」


「はい。招待客の名簿や、当日の進行を任されております」


「大変な役目でしょう。うちの領地でも、行事のたびに人手が足りず、いつも同じ数人で回しています」


その一言に、父が興味を示した。


「北の領地は、それほど人手が乏しいのですか」


「冬の間、王都から人を呼ぶのは難しく、地元で育てるしかありません。ですが、育てるにも時間がかかります。ここ数年は、文官の不足が特に深刻です」


「作物は、主に何を」


「小麦と、羊毛です。冬が長い分、織物が盛んで、南方の商人がわざわざ買い付けに来ます。ただ、その取引の帳簿付けまで手が回らず、毎年、正確な数字が出るのが遅くなります」


「それでは、来季の作付けや仕入れの判断も遅れてしまうのでは」


「その通りです。よくお分かりで」


ガレスは少し驚いたように、エレノアを見た。世間話のつもりで話していたことに、的確な指摘が返ってきたことが意外だったらしい。


ガレスの口調に、悲壮感はなかった。困っている、と嘆くのではなく、事実として淡々と語っている。だがその落ち着きの裏に、長年一人で抱えてきた苦労がにじんでいるようにも見えた。


「そちらのお嬢様のように、数字と人の扱いの両方に通じた方がいれば、随分と助かるのですが」


軽い調子で言われた言葉だったが、エレノアはその場で小さく反応してしまった。今まさに、式典の招待客名簿と格闘している最中だったからだ。


「私で良ければ、いつか領地の帳簿を拝見してみたいですわ。……もちろん、口だけの話ですけれど」


半ば冗談のつもりだった。だがガレスは、その言葉を茶化すことなく、まっすぐに受け止めた。


「口だけとは思いません。機会があれば、ぜひお願いしたい」


その返答の速さに、エレノアの方が戸惑った。社交辞令として流すことに慣れていたので、真剣に受け取られると、どう返せばいいのか分からなくなる。


会話の合間、ガレスはふとエレノアの手元に目を留めた。


「指に、インクの跡が」


言われて見ると、右手の中指に、うっすらとインクの染みがついていた。この数日、招待状の下書きに追われていたせいだろう。


「……お恥ずかしいところを」


「いえ。よく働いておられる証だと思います。私の領地の文官も、皆同じような手をしています」


嫌味でも、からかいでもない、ただの観察のような口ぶりだった。だがエレノアには、その一言が妙に染み込んだ。誰かに、努力の跡そのものを認められたのは、久しぶりのことだった。


しばらくして、父が来客の対応で席を外すと、応接間にはガレスとエレノアの二人だけが残された。気まずさを覚える間もなく、ガレスが先に口を開いた。


「先ほどの、記録が遅れるという話ですが。フォスター家では、どのように帳簿を管理しておいでですか」


「月ごとに、収支を一冊にまとめています。父の代から続けているやり方で、特別なことは何も」


「その一冊で、何年分をご覧になれますか」


「五年分は、すぐに見比べられるようにしてあります」


「……羨ましい話です。うちでは、去年の数字を探すだけでも一苦労で」


軽い口調だったが、そこには誇張も謙遜もなく、ただ現状を伝えるだけの率直さがあった。エレノアは、これまで自分が当たり前だと思っていた作業が、他所ではそうではないのだと初めて実感した。


「よろしければ、簡単な形式だけでもお伝えできますが」


「本当に? 助かります」


ガレスは、口先だけで言っているようには見えなかった。実際に助けを必要としている人間の顔だった。エレノアは、その表情に、これまで見たことのない種類の頼られ方を感じ取った。頼られることに慣れていないわけではない。ただ、こんなふうに、対等な立場で頼られたことは、あまりなかった。


夕刻になり、ガレスは滞在先の屋敷へ戻る支度を始めた。玄関先まで見送りに出たエレノアに、彼は少し改まった様子で切り出した。


「今回の滞在は、社交シーズンの間、王都に留まる予定です。もしよろしければ、また改めてお伺いしても?」


「もちろんです。父も、きっと喜びます」


「……エレノア嬢にも、お伺いしたいことがあります。式典の準備で使っている記録の付け方について、参考にさせていただきたい」


思いがけない申し出だった。社交辞令の延長かとも思ったが、彼の目に浮かんでいたのは、純粋な興味のようなものだった。


馬車が走り去るのを見送ったあと、エレノアは玄関先にしばらく立っていた。指先のインクの跡を、無意識に指で確かめる。


今日会ったばかりの相手について、まだ多くを知っているわけではない。だが、約束の時間を守ること、人の努力を見過ごさないこと、口先だけでなく実際に動くこと――そのどれもが、これまで当たり前だと思っていなかったものだと、エレノアは気づき始めていた。


婚約者という近しい間柄でもないのに、初対面の相手との会話の方が、かえって気疲れしなかった。その理由を、エレノアはまだうまく言葉にできずにいた。


自室に戻り、手帳を開く。今日の出来事を書き記す手が、いつもより少しだけ速く動いた。


『ヴォルグレイブ卿、来訪。記録の付け方について、後日相談したいとのこと』


一行書き終えたところで、エレノアはふと手を止めた。式典の日取りの重なりも、セドリックの煮え切らない態度も、まだ何一つ解決していない。だが今夜だけは、それとは別の場所に、小さな明かりが灯ったような気がした。

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