任せる、という言葉
式典の準備は、思っていたよりも早く動き出した。
ラングフォード侯爵家から遣わされた家令が、招待客の候補名簿を携えてフォスター邸を訪れたのは、茶会から三日後のことだった。
「侯爵様より、正式な日取りが決まり次第、こちらの名簿を基に招待状の手配を進めていただきたいとのことです」
エレノアは名簿を受け取り、目を通した。両家の親族、社交界の主だった家々、王都に縁のある高位貴族。名前を追うだけでも、この式典が単なる内輪の集まりではないことが分かった。
「席次についても、いくつか確認させていただきたい点が」
家令は続けて、上座に座る親族の序列や、招待客同士の関係で気を配るべき点をいくつか挙げた。どの家とどの家が疎遠か、どの当主が過去に諍いを起こしたか――そうした細かな事情まで頭に入れておかなければ、当日の失礼につながる。
「侯爵様は、この件について何か特にお考えでしょうか」
「旦那様は、大筋のところで問題がなければそれで良いと仰っています。細部は、フォスター家のお嬢様にお任せするようにと」
任せる、という言葉を、エレノアはこの数日でもう何度も聞いていた。
名簿の中には、見覚えのない名前もいくつかあった。家令に尋ねると、王都の外から来る親族もいると言う。北方に領地を持つ家の名を目にして、エレノアはふと、明日訪れる遠縁の辺境伯のことを思い出した。もっとも、名簿の中に彼の名はなかった。式典と個人的な訪問は、別の話だ。
家令が帰ったあと、エレノアは自室の机に向かい、招待客の座席図を描き始めた。誰と誰を近くに、誰と誰を離して。地味な作業だったが、手を動かしている間だけは、式典の日取りをめぐる不安を忘れられた。
「日取りは、いつ頃に?」
「来月の第三週の土曜日と、侯爵様は仰っておいでです」
その日付を聞いた瞬間、エレノアの中で、先日の茶会での会話が蘇った。念のため確かめようと、その日のうちにリリアーヌ宛てに手紙を書いた。父君の快気祝いの日取りが決まったかどうかを尋ねる、簡潔な内容だった。
返事は二日後に届いた。開いてすぐ、エレノアは短く息を吐いた。
『父の快気祝いは、来月の第三週の土曜日に決まりました。近しい方だけの、ささやかな集まりです』
同じ日だった。冗談のように、寸分違わず同じ日付が並んでいる。
エレノアはその日の午後、セドリックの元へ手紙を持って向かった。応接間に通されると、彼は書類を片付けながら、少し疲れた様子で出迎えた。
「セドリック様。式典の日取りと、リリアーヌ様のお父様の快気祝いが、同じ日に重なっています」
「……本当に?」
「ええ。侯爵様が決めた日と、モンド男爵家が決めた日と、両方確認しました」
セドリックは眉を寄せ、しばらく黙り込んだ。だがすぐに、いつもの調子で肩の力を抜く。
「まあ、そのうち何とかなるさ。父上に話して、どちらかの日をずらしてもらえばいい」
「侯爵様の式典の日取りは、もう招待状の準備に入っています。今からずらすのは簡単ではないと思うのですが」
「それは分かってる。でも、こういうのはいつも、どうにかなるものだよ。両親同士の話だし、僕が口を挟むより、成り行きに任せた方がいいこともある」
その言葉に、エレノアは小さな苛立ちを覚えた。成り行きに任せる、というのは、誰かが代わりに動いてくれることを前提にした言葉だ。そしてその「誰か」に、セドリック自身が含まれていないことに、彼はまるで気づいていない。
「セドリック様。もし本当に日取りが動かせないなら、リリアーヌ様のお祝いの方に、事情を伝えておいた方がいいと思うのですが」
「事情を?」
「重なっていることを、早めに知らせておいた方が、向こうも心構えができるでしょう」
「……そうだね。まあ、そのあたりは、うまく伝わるようにしておくよ」
うまく伝わるように、という言葉も、具体的な行動を伴わないまま、宙に浮いたままだった。
「分かりました。私の方でも、念のため両家の間で調整が進んでいるか、確認しておきます」
「頼むよ。君がいてくれると本当に助かる」
助かる、という言葉を、エレノアはもう何度目か数える気にもなれなかった。
屋敷に戻る馬車の中で、エレノアは窓の外を眺めながら、これまでのやり取りを振り返っていた。式典の重みを語ったのは父であり、日取りの矛盾に気づいたのは自分であり、それを両親に伝えて回るのも、結局は自分になりそうだった。セドリックは、その真ん中で、ただ「どうにかなる」と信じている。
屋敷に戻ると、身支度を手伝いに来たマーサが、エレノアの浮かない顔に気づいた。
「お嬢様、何か気がかりなことでも」
「……マーサは、変だと思う? 大事な式典の日取りが重なっているのに、婚約者本人があまり気にしていないというのは」
マーサは少し言葉を選ぶように間を置いてから、控えめに答えた。
「私が申し上げることではないかもしれませんが……気にする気にならないことと、気にしなくていいことは、別のように思います」
その一言は、エレノアがここ数日感じていた違和感に、静かに輪郭を与えるようだった。
「気にしなくていい、と自分に言い聞かせるのは簡単だけれど……本当は気にした方がいいことを、見ないふりしているだけなのかもしれないわね」
エレノアが呟くと、マーサは何も言わず、ただ小さく頷いた。それ以上の言葉は、侍女の立場では口にできないのだろう。だがその沈黙も、十分な答えのように感じられた。
自室に戻り、手帳を開く。
『式典とお祝いの日取り、同日と判明。セドリック様、対応は父親任せの姿勢』
書き終えて、エレノアはしばらくペンを置いたまま、窓の外を見つめた。何かを責めているつもりはなかった。ただ、この先も同じことが繰り返されるのだとしたら、それはもう「たまたま」では済まされない気がした。
その晩、父から声をかけられた。
「明日、ヴォルグレイブ卿が到着されるそうだ。予定通り、午後には屋敷にお越しになる」
「……明日、ですか」
急に、目の前の式典のことから意識が引き戻された。会ったこともない遠縁の辺境伯。母の姉が嫁いだという、遠い北の土地の主。
エレノアは手帳を閉じ、明日の予定に思いを馳せた。会ったことのない遠縁の辺境伯が、どのような人物なのか、想像もつかない。北の寡黙な貴族、とだけリリアーヌから聞かされていたが、それ以上のことは何も知らなかった。
式典の悩みは何一つ解決していなかった。だが今夜だけは、それとは別の種類の緊張が、胸の内に広がっていくのを感じた。明日という日が、これまでとは少し違う一日になる予感があった。




