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幼馴染ばかり優先する婚約者はいりません。私は辺境伯と静かに暮らします  作者: ローナ


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雪の夜の産声

初雪が降った朝、エレノアは、いつもより早く目を覚ました。お腹の奥に、これまで感じたことのない、鈍い張りがあった。


「ガレス。……たぶん、そろそろです」


隣で眠っていたガレスが、弾かれたように身を起こした。


「産婆を呼んできます。いえ、その前に、レジーナを。……ああ、順番が」


「落ち着いてください。まだ、少し時間があるはずですから」


エレノアが苦笑すると、ガレスは、寝癖のついた髪のまま、深く息を吐いた。領地の危機に際しても、王家の役人を前にしても、冷静さを崩さなかった人が、今は見る影もなく慌てている。その様子が、なぜだか、たまらなく愛おしかった。


屋敷は、あっという間に、慌ただしくなった。レジーナは、湯と清潔な布を手際よく整えさせ、マーサは、エレノアの傍らで、汗を拭い続けた。トビアスは、村へ走り、産婆を迎えに行った。


「奥様の代わりに、今日の記録は、僕が全部つけておきます。だから、何も心配しないでください」


寝台のそばを離れる直前、トビアスは、そう言い残していった。帳簿の心配をしている場合ではないのに、と、エレノアは、痛みの合間に、小さく笑った。けれど、その言葉は、確かに、心を軽くしてくれた。任せられる人がいるということが、こんなにも、人を楽にしてくれるのだと、あらためて思った。


マーサが、そっと立ち上がった。


「お父上様は、先週から、屋敷にお泊まりでしたね。お知らせしてまいります」


「ええ、お願い」


約束通り、父は、出産の少し前から、ヴォルグレイブ領に滞在していた。知らせを受けた父は、廊下の向こうで、落ち着きなく行ったり来たりしているという。


夕刻が近づくにつれ、痛みは、少しずつ強くなっていった。エレノアは、歯を食いしばりながら、これまでの日々を、ふと思い返していた。誕生日の夜、一人で笑顔を作っていた自分。壇上に一人で立った自分。あの頃の自分は、痛みを、ただ飲み込むことしか知らなかった。


けれど今は、違う。痛いと言える。苦しいと言える。そして、その手を握ってくれる人が、すぐそばにいる。


「エレノア、ここにいます。……ずっと、ここにいます」


ガレスが、エレノアの手を、両手で包み込んでいた。その手は、微かに震えていた。


「大丈夫です。……あなたの手が、温かいから」


エレノアがそう答えると、ガレスは、涙を堪えるように、唇を噛んだ。


夜が更け、雪が、窓を静かに叩き続けていた。長い時間が過ぎた。産婆の声と、レジーナの励ましと、マーサの祈るような呟きが、遠くで混ざり合っていた。


「エレノアさん。もう少しですよ。あなたなら、大丈夫」


レジーナが、額の汗を拭いながら、静かに言った。


「ガレスを産んだ母君も、同じ部屋で、同じように頑張りました。この屋敷は、そうやって、命を迎えてきたのです」


その言葉に、エレノアは、この部屋に積み重なってきた、見えない時間の重さを感じた。ガレスの母も、その前の誰かも、この場所で、同じように、痛みに耐え、そして、新しい命を抱いたのだ。自分もまた、その長い連なりの、一つの輪になれたのだと思うと、不思議と、力が湧いてきた。


窓の外には、いつの間にか、ちらちらと、小さな灯りが集まり始めていた。産婆が、そっとカーテンの隙間から外を覗き、微笑んだ。


「村の皆さんが、門のところに、蝋燭を持って集まっていますよ。この土地では、領主様のお子が生まれる夜には、そうやって、皆で無事を祈るのだそうです」


雪の降る闇の中に、無数の小さな灯りが、静かに揺れていた。エレノアは、その光を思い浮かべながら、もう一度、力を込めた。


そして、夜半を過ぎた頃。


小さな、けれど、力強い産声が、部屋いっぱいに響き渡った。


「おめでとうございます! 元気な、女の子ですよ!」


産婆の声に、エレノアは、全身から力が抜けていくのを感じた。産湯を使った小さな命が、柔らかな布に包まれて、そっと、エレノアの腕の中に置かれた。


小さな、小さな手だった。ぎゅっと握られた指の先まで、確かな温もりがあった。


「……初めまして」


エレノアの声は、涙で、ひどく掠れていた。


「ようこそ。……ここが、あなたの、生まれた場所よ」


ガレスは、その光景を、しばらく、何も言えずに見つめていた。やがて、堪えきれなかった涙が、静かに頬を伝った。


「ありがとう、エレノア。……本当に、ありがとう」


「あなたも、ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」


二人は、互いの額を寄せ合い、腕の中の小さな命を、そっと見守った。


部屋の外で待っていた父は、扉が開いた瞬間、誰よりも早く、部屋に足を踏み入れた。


「エレノア……。よく、頑張った」


父の声は、震えていた。エレノアの腕の中の孫娘を、恐る恐る覗き込み、そして、顔をくしゃくしゃにして笑った。


「お前の母に、そっくりな目をしている」


その言葉に、エレノアは、思わず息を呑んだ。会ったことのない母の面影が、今、目の前の小さな命の中に、確かに息づいている。


「抱いて、あげてください、お父様」


エレノアがそう言うと、父は、しばらく躊躇った後、不器用な手つきで、孫娘を抱き上げた。眠る赤子の顔を見下ろしながら、父は、静かに呟いた。


「幸せに、なりなさい。……お前の望む道を、歩めるように」


その言葉は、かつて、エレノアに向けられたものと、同じ響きをしていた。


その様子を、少し離れた場所から見ていたガレスに、父は、静かに歩み寄った。


「ガレス殿。……娘を、選んでくださって、ありがとう」


「私の方こそ、お礼を申し上げねばなりません。エレノアが、私を選んでくれたのですから」


「そうだな。……あの子は、いつも、自分で選んできた。だからこそ、こうして、幸せを掴めたのだと思う」


父は、そう言うと、ガレスの肩に、そっと手を置いた。二人の男は、それ以上、言葉を交わさなかった。ただ、腕の中で眠る小さな命を見つめる眼差しだけが、同じ温かさを湛えていた。


レジーナも、マーサも、トビアスも、代わる代わる、小さな命を覗き込んでは、目を潤ませた。


「この屋敷に、また、小さな足音が響く日が来るなんて」


レジーナが、しみじみと呟いた。


「奥様に、そっくりの、しっかりとした眉をしていますね」


マーサの言葉に、皆が、笑みを浮かべた。


「エレノアさん。……お嬢様が、お生まれになりましたね」


トビアスが、涙で声を詰まらせながら、そう言った。


「今日の記録には、こう書いておきます。ヴォルグレイブ領に、新しい命が、生まれた日、と」


「ありがとう、トビアス。……きっと、それが、この土地にとって、一番大切な記録になるわ」


エレノアの言葉に、トビアスは、何度も、力強く頷いた。


しばらくして、門の外が、にわかに、ざわめき始めた。産声は、雪の夜の静けさを渡って、村にまで届いていたのかもしれない。ガレスは、エレノアに促されて、外套を羽織り、雪の降りしきる門へと向かった。


蝋燭を手にした村人たちが、息を詰めて、彼を待っていた。古老も、村長も、あの家畜小屋の一件で出会った女性も、子どもたちも、皆、雪に肩を白くしながら、そこに立っていた。


「……生まれました。元気な、女の子です。母子ともに、無事です」


ガレスの声が、夜の空気に、静かに響いた。


一瞬の沈黙のあと、割れるような歓声が、雪の闇を揺らした。誰かが泣き、誰かが笑い、蝋燭の灯りが、いくつもいくつも、高く掲げられた。その光景を、ガレスは、生涯、忘れないだろうと思った。


窓辺からその歓声を聞いていたエレノアは、腕の中の娘に、そっと囁いた。


「聞こえる? あなたを、皆が、待っていてくれたのよ」


赤子は、何も知らぬまま、小さな寝息を立てていた。けれど、その頬は、蝋燭の灯りを映して、ほんのりと赤く染まって見えた。


やがて、屋敷が静けさを取り戻した頃、エレノアは、ガレスと二人、眠る娘を挟んで、寝台に横たわっていた。


「名前は、もう、考えてありますか」


「実は、いくつか。……でも、あなたと一緒に決めたいと思っていました」


「では、一緒に決めましょう。この子の名前は、私たち二人で、選びたいから」


二人は、小さな声で、いくつもの名前を挙げては、微笑み合った。やがて、一つの名前が、自然と二人の間に落ち着いた。


「リディア。……どうでしょう」


「ええ。……とても、良い響きです」


エレノアは、娘の小さな頬に、そっと指先を触れさせた。


「リディア。あなたは、自分の道を、自分で選んでいいのよ」


眠る赤子は、何も答えなかった。ただ、小さな唇が、夢の中で、微かに動いた。


窓の外では、いつの間にか、雪が止んでいた。雲の切れ間から、冬の星々が、静かに瞬いている。


エレノアは、枕元の手帳に、ちらりと目をやった。今夜は、まだ、何も書けそうになかった。この胸に溢れる想いを、言葉にするには、もう少し時間が必要だった。


最初の一行を書いたのは、たった一人の夜だった。誰にも見せるつもりのない、小さな違和感の記録だった。あの頃の自分は、この手帳が、いつか、こんなにも温かい夜に辿り着くなど、想像もしていなかった。


いつか、この子が大きくなったとき。自分の道に迷って、立ち止まる日が来たとき。この手帳を、開いてみせる日が来るのかもしれない。我慢することしか知らなかった一人の女が、どうやって、自分の人生を、自分の手に取り戻していったのか。その道のりを、この子に、伝えられるように。


明日、目が覚めたら、書こう。この手帳の、最後のページに。


そう思いながら、エレノアは、腕の中の小さな温もりを感じつつ、ゆっくりと、目を閉じた。

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