最後のページ
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外は、眩しいほどの白に満ちていた。夜のうちに止んだ雪が、屋根も畑も丘も、すべてを同じ色に染めている。
腕の中では、リディアが、小さな口を動かして眠っていた。昨夜の出来事が夢ではなかったことを、その重みと温もりが、確かに教えてくれる。
「起きていたのですか」
寝台の傍らの椅子で、ガレスが、毛布にくるまったまま、目を擦った。結局、朝まで、そこを動かなかったらしい。
「あなたこそ。ずっと、そこに?」
「動けませんでした。目を離したら、消えてしまう気がして」
大真面目な顔でそう言うので、エレノアは、思わず声を立てて笑った。リディアが、ぴくりと眉を動かす。二人は慌てて口を押さえ、それから、また、小さく笑い合った。
朝食の盆を運んできたマーサが、そっと枕元に置いた。
「奥様。トビアスさんが、早朝から、記録を仕上げておりましたよ。『新しい命が生まれた日』と、一番上に書いてありました」
「そう。……あとで、見せてもらうわ」
ガレスは、二人分の茶を淹れると、少し迷ってから、控えめに言った。
「少し、席を外しましょうか。……手帳を、書くのでしょう」
「気づいていたのですね」
「昨夜、眠る前に、ずっと見ていましたから」
ガレスは、慣れない手つきでリディアを抱き上げると、「向こうの部屋で、レジーナに叱られてきます」と言い残して、静かに出ていった。
一人になった部屋で、エレノアは、枕元の手帳を手に取った。
表紙の角は、いつの間にか、擦り切れていた。この二年、ほとんど毎晩のように、開いては閉じてきた。残りは、あと一頁しかない。
最初のページを開く。
『ヴォルグレイブ卿、来月来訪。伯母上のこと』
『寄付品の件、相談なし』
震えてはいない。けれど、どこか遠慮がちな文字だった。誰かに読まれることを恐れるように、小さく、隅に寄せて書かれている。あの頃の自分は、自分の気持ちを書くことにさえ、許しを求めていたのだと思う。
ページをめくる。
『私は、何なのだろう』
『式典とお祝い、同日と判明。セドリック様、対応は父親任せの姿勢』
『今日、私は一人で壇上に立った。誰も、私の代わりにはなってくれなかった』
『これは、今日だけのことではない』
文字は、少しずつ、大きくなっていった。誰かの言動を書き留めるだけだった記録が、いつからか、自分が何を感じ、何を考えたのかを書くものに変わっていく。
『私は、都合の良い相手ではなく、対等な相手として見てもらいたい。それが叶わないのなら、この関係を続ける意味はない』
その一行のあと、ページの真ん中に、ひとつだけ、短い言葉があった。
『婚約を解消した。誰のせいでもなく、自分の意志で』
他のどの行より、筆跡がしっかりしていた。ここが、この手帳の、折り返しなのだと、エレノアは思った。
そこから先は、まるで、別の人の日記のようだった。
『ヴォルグレイブ領、初日』
『これは、恋なのだと思う。今更ながら、認めることにする』
『明日、私は、自分の意志で選んだ人と、自分の意志で選んだ場所で、新しい人生を始める』
不安も、涙も、迷いも、そこには確かに書かれていた。それでも、行を追うごとに、言葉の芯が、まっすぐになっていく。
最後の記述は、秋の日付で止まっていた。その先は、まっさらな白紙が、一枚だけ残っている。
エレノアは、ペンを取った。
書き出そうとして、手が止まった。何を書けばいいのだろう。この二年、自分は、いつも、何が起きたかを書いてきた。誰に何をされたか、誰が何と言ったか。それは、自分の身を守るための、大切な記録だった。
けれど、この最後の一頁に書きたいのは、そういうことではなかった。
窓の外を見た。雪の白の向こうに、丘が見える。その頂に、二つの墓標があることを、エレノアは知っている。
ペン先を、紙に落とした。
『私は、我慢することが、優しさだと思っていた。
自分の気持ちを後回しにすることが、大切にされる方法だと信じていた。
違った。
自分を大切にしない人を、誰かが大切にしてくれるはずがなかった。まず、私自身が、私の味方にならなければならなかった。
そんな当たり前のことに気づくまで、二十年あまり、かかった。
誰かを恨む気持ちは、もうない。あの日々も、私の道の一部だったから。あの道を歩かなければ、この場所には、辿り着けなかった。
今の私は、自分の意志で、選ぶことができる。
どこで暮らすか。誰と生きるか。何を大切にするか。何を、断るか。
選んだことには、責任を持つ。間違えたなら、選び直せばいい。それは、少しも怖いことではなかった。
リディア。
あなたにも、いつか、迷う日が来る。立ち止まって、誰かの声に、従いそうになる日が来る。
そのときは、思い出してほしい。あなたの人生の舵は、あなたが握っていいのだと。
私は、あなたがどんな道を選んでも、その隣で、見守っている。
今日、私は、自分の人生を、自分で選んだ。
そして、明日も、その先も、そうしていく。』
書き終えて、エレノアは、ペンを置いた。
インクが乾くのを待ちながら、その文字を、何度か読み返した。涙は、出なかった。ただ、胸の中の、一番深いところにあった何かが、ようやく、本来の場所に、収まったような気がした。
思えば、この手帳の最初の一頁を書いた夜、自分は、こんな結末を、想像さえしていなかった。ただ、明日も同じ一日が来ることを、恐れていただけだった。それが今、こうして、明日を待つことが、楽しみになっている。
手帳を閉じる。表紙を、掌でそっと撫でた。
扉が、控えめに叩かれた。
「入っても、いいですか」
ガレスが、リディアを抱いて、戻ってきた。その後ろから、レジーナが、こっそりと顔を覗かせている。
「叱られましたか」
「ええ。『赤子を抱く手が固すぎる』と」
「当たり前です。ガレスは、力を入れすぎなのですよ」
レジーナが、笑いながら部屋に入ってきた。ガレスは、少し情けない顔をして、リディアを、エレノアの腕に戻した。
「書けましたか」
「ええ。……最後のページまで」
エレノアは、閉じた手帳を、枕元に置いた。
「これは、この子が大きくなったら、見せようと思います。……あなたも、読みたければ、いつでも、どうぞ」
「いいのですか」
「もう、隠すことは、何もありませんから」
ガレスは、しばらく、その手帳を見つめていた。やがて、穏やかに首を振った。
「では、この子と一緒に、読ませてもらいます。……あなたが、あなた自身の言葉で語れる日まで、待っていますから」
その言葉に、エレノアは、微笑んだ。待たされる夜が、かつては、あんなにも苦しかった。けれど、待つことを、こんなふうに、温かく差し出してくれる人がいる。
その日の午後、屋敷の玄関の前に、大きな雪だるまが、いつの間にか立っていた。子どもたちが、村から来て、作っていったのだという。その傍らで、トビアスが、真新しい帳簿を抱えて、誇らしげに立っていた。
「エレノアさん。今日から、正式に、僕が会計係です。……最初の記録は、もう、つけておきました」
「ありがとう、トビアス。あとで、ゆっくり、見せてもらうわ」
その言葉に、トビアスは、深く、頭を下げた。
雪解けの季節が、また、巡ってきた。
リディアは、首が据わり、よく笑うようになった。抱き上げると、小さな手で、エレノアの髪を、ぎゅっと握って離さない。
丘の斜面には、去年と同じように、小さな白い花が咲き始めていた。
「今日は、どこへ行きたいですか」
朝食のあと、ガレスが、そう尋ねた。
その問いに、エレノアは、ふと、遠い昔の言葉を思い出した。「エレノアなら、分かってくれるだろう」。自分の気持ちを、誰にも尋ねられなかった頃のことを。
けれど、今、目の前の人は、こうして、当たり前のように、尋ねてくれる。そして自分は、迷わずに、答えることができる。
「丘に、行きたいです。この子を、あなたのご両親に、ちゃんと紹介したいの」
「ええ。行きましょう」
ガレスは、嬉しそうに頷いた。
二人は、リディアを連れて、屋敷の裏手から続く小道を、丘へ向かって歩き出した。足元の土は、柔らかく、春の匂いがした。
丘の上には、変わらず、二つの墓標が並んでいた。ガレスが、摘んできた花を、そっと供える。
「父上、母上。……紹介します。私の妻と、娘です」
エレノアは、リディアを抱いたまま、静かに頭を下げた。
「エレノアです。……この土地で、自分の人生を、始めることができました。ありがとうございます」
風が、草を揺らした。その音が、誰かの返事のように、聞こえた。
丘の上からは、領地のすべてが見渡せた。芽吹き始めた畑、煙の上がる村の家々、そして、その中に、あの屋敷の屋根が見える。遠くの畦道では、父が、村の男たちと水路の図面を広げて、熱心に話し込んでいた。あの場所で、たくさんの人が、自分の帰りを待っていてくれる。
腕の中で、リディアが、小さく声を上げた。
エレノアは、娘を、そっと抱き直した。
これから先も、迷う日は、来るだろう。間違える日も、あるだろう。それでも、もう、怖くはなかった。選ぶのは、自分だ。
「帰りましょうか」
ガレスの声に、エレノアは、頷いた。
「ええ。……帰りましょう。私たちの、家へ」
並んで歩き出した二人の足元に、春の光が、まっすぐに伸びていた。
かつて、誰かの言葉を待つばかりだった一人の令嬢は、もう、どこにもいない。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で、自分の人生を選ぶ一人の女性が、そこにいた。
その背中を、丘の上の風が、そっと、押していた。




