新しい命
夏の盛りを迎えたある朝、蝉の声が響く庭を眺めながら、エレノアは、いつもと違う、体の異変に気づいた。
「奥様、顔色が優れないようですが」
朝食の席で、体調が思わしくないエレノアに、マーサが心配そうに声をかけた。
「少し、疲れているだけかもしれないわ」
そう答えながらも、エレノアの中には、ある予感が、静かに芽生えていた。ここ最近、体調の変化に、思い当たる節がいくつかあった。
「お嬢様……いえ、奥様。もしかして」
マーサも、何かを察したように、そっと言葉を継いだ。
「まだ、分からないわ。でも、念のため、診てもらった方がいいかもしれない」
その日のうちに、エレノアは、村の産婆のもとを訪ねる手はずを整えた。
数日後、村の産婆に診てもらうと、その予感は、確かなものとなった。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
その知らせに、エレノアは、しばらく言葉を失っていた。
「本当、ですか」
「ええ、間違いありません。まだ初期ですから、無理は禁物ですが」
産婆の言葉に、エレノアは、これまで経験したことのない種類の、深い感動に包まれた。
「体調の変化には、これから、色々と気をつけていただく必要があります。無理をせず、しっかりと栄養を取って、体を休めてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
産婆の家を出て、屋敷への帰り道、エレノアは、まだ実感の湧かない喜びを、静かに噛み締めていた。自分の中に、新しい命が宿っている。その事実だけで、これまで見てきた景色が、少し違って見えるような気がした。
その晩、エレノアは、夕食の席で、ガレスに、そっと打ち明けた。
「あなたに、大切なお話があります」
「何でしょう」
「私たちに、子どもが授かりました」
その言葉に、ガレスは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。やがて、震える声で、ようやく言葉を発した。
「本当、ですか……。エレノア、ありがとう」
ガレスは、そっとエレノアを抱きしめた。その腕には、これまでにない、優しい力が込められていた。
「正直、まだ、実感が湧きません。……ですが、この上ない幸せを感じています」
「私も、同じ気持ちです。まだ、どこか夢のようで」
二人は、しばらく、静かに抱き合ったまま、その喜びを分かち合った。
「私たちの子ども。……両親のように、この土地を大切にする子に、育ってほしいですね」
「ええ。私も、同じ気持ちです。それに、誰かに都合よく扱われるのではなく、自分の意志で、道を選べる子に育ってほしいとも思います」
その言葉に、ガレスは、深く頷いた。エレノアがこれまで歩んできた道のりの意味を、誰よりもよく理解している人だからこそ、その願いの重みを、正しく受け止めてくれた。
その夜、屋敷中に、この喜ばしい知らせが、あっという間に広まった。
「おめでとうございます!」
レジーナが、涙を流しながら、エレノアの手を握った。
「まさか、この屋敷で、また新しい命が育つ日が来るとは。……ガレスの両親も、きっと、天国で喜んでいることでしょう」
「レジーナ様には、育児のことでも、色々とご相談させてください」
「もちろんですとも。私に分かることでしたら、何でもお教えします。……ああ、また、この屋敷に、小さな笑い声が響く日が来るのですね」
その言葉に、レジーナは、感慨深げに、屋敷の中を見渡した。長年、静かに一人で切り盛りしてきたこの場所に、これから新しい賑わいが加わろうとしていることを、誰よりも喜んでいるようだった。
トビアスも、興奮を隠しきれない様子で、祝福の言葉を述べた。
「エレノアさん、旦那様、本当におめでとうございます! 僕、赤ちゃんのために、何かお手伝いできることがあれば、何でもします」
「ありがとう、トビアス。……そういえば、あなたも、この一年で、随分と大人になったわね」
「エレノアさんが、色々なことを教えてくださったおかげです。いつか、この子にも、僕が教わったことを、少しでも伝えられたら嬉しいです」
その言葉に、エレノアは、胸がいっぱいになった。この土地で築いてきた繋がりが、これから生まれてくる子どもにも、確かに受け継がれていくのだと、静かに実感した。
翌朝、エレノアは、王都の父に、この知らせを伝える手紙をしたためた。
『お父様。私たちに、子どもが授かりました。まだ気は早いですが、お伝えしたく、筆を取りました』
返事は、驚くほど早く届いた。
『なんと、めでたい知らせだ! すぐにでも、駆けつけたい気持ちだが、無理はさせられない。生まれる頃には、必ず、そちらへ向かおう。エレノア、体を大切にしなさい』
その文面には、これまでにない、父の喜びが、はっきりと表れていた。手紙の最後には、こう書き添えられていた。
『お前の母が生きていれば、初孫の誕生を、どれほど楽しみにしただろう。……エレノア、これからも、無理をせず、体を第一に考えて過ごしなさい』
その一文に、エレノアは、目頭が熱くなった。会ったことのない母の存在が、こうした形で、また一つ、自分の人生に寄り添ってくれているように感じられた。
村にも、この知らせは、すぐに広まった。
「エレノア様のお子様なら、きっと、素晴らしい子に育つでしょうね」
「私たちも、これから、色々とお世話をさせていただきます」
家畜小屋の一件で出会った、あの女性も、真っ先に、屋敷を訪ねてきてくれた。
「エレノア様、おめでとうございます! 私にも、何か、お手伝いさせてくださいな。産着の一つでも、縫わせていただければ」
「ぜひ、お願いします。あなたの温かい心遣いを、この子にも、感じてほしいですから」
その申し出に、女性は、嬉しそうに何度も頷いた。
村人たちの温かい言葉の一つ一つに、エレノアは、これから生まれてくる子どもが、すでに、多くの人々に見守られていることを、静かに実感した。
夜、自室に戻り、エレノアは手帳を開いた。
『子どもを授かった。ガレス様、皆、心から喜んでくれている。この土地で、新しい命を育てられることが、何よりも幸せだ』
書き終えて、エレノアは、そっと自分のお腹に手を当てた。まだ何も分からない、小さな命。だが、その存在は、これまでの人生で経験してきた、どの喜びとも違う、確かな重みを持って、エレノアの中に息づき始めていた。
これまでの手帳のページを、静かにめくり返してみる。誕生日の夜の孤独から始まり、婚約解消、そして、この土地での新しい人生。その道のりの果てに、今、新しい命を授かった喜びが、こうして加わろうとしている。
かつて、自分がどう扱われるかさえ、自分では決められないと感じていた頃があった。だが今、エレノアは、自分の人生を、自分の意志で選び続けてきた。そしてこれから、その選択の先に生まれてくる、新しい命を、大切に育てていく番だった。
窓の外には、夏の力強い日差しが、この土地を、明るく照らしていた。新しい命を迎える準備が、静かに、しかし確実に、始まろうとしていた。




