お父様の新しい一歩
新緑が眩しい初夏のある日、父から、久しぶりの訪問を知らせる手紙が届いた。屋敷の周りの木々も、すっかり緑濃くなり、村の畑では、若い作物が、日に日に育っている。
『少し早いが、伯爵の職を、そろそろ従兄弟の息子に譲ろうと思っている。隠居後は、時間に余裕ができるだろうから、お前たちのところへ、頻繁に顔を出せそうだ』
その知らせに、エレノアは、少なからず驚いた。
「お父様が、隠居を」
「エレノアが嫁いでから、色々と、身の振り方を考えていらしたのかもしれませんね」
ガレスの言葉に、エレノアも、静かに頷いた。
父が到着すると、屋敷は、いつも以上に賑やかになった。トビアスも、レジーナも、久しぶりの再会を喜び、屋敷中が、温かい空気に包まれた。
「フォスター伯爵様、お久しぶりです」
トビアスが、丁寧に頭を下げると、父は、親しみを込めて肩を叩いた。
「トビアス君も、随分と、頼もしくなったな。エレノアから、色々と聞いているよ。会計係への推薦、おめでとう」
「ありがとうございます! フォスター伯爵様に、そう言っていただけると、励みになります」
その温かいやり取りに、エレノアは、二つの家の人々が、こうして自然に打ち解けていく様子を、嬉しく見守っていた。
「エレノア。少し、話しておきたいことがある」
夕食後、父が、改まった様子で切り出した。
「伯爵の地位を譲ることに決めたのは、単に歳のせいだけではない。お前が、自分の意志で新しい人生を選んだのを見て、私自身も、これからの人生を、もっと自由に生きてみたいと思うようになった」
「お父様が、そのように思われるとは、意外でした」
「正直、私自身、驚いている。だが、お前の姿を見ていると、人生は、いくつになっても、自分の意志で選び直せるものなのだと、教えられた気がするのだ」
その言葉に、エレノアは、胸が熱くなった。かつて、娘の判断材料を静かに見守るだけだった父が、今では、自分自身の人生についても、新しい一歩を踏み出そうとしている。
「お母様のことも、思い出されますか」
エレノアがそう尋ねると、父は、少し遠い目をした。
「ああ。お前の母は、いつも、私に、もっと自分らしく生きるようにと、言っていた。……今になって、ようやく、その言葉の意味が、分かってきた気がする」
その言葉に、エレノアは、会ったことのない母の存在を、改めて身近に感じた。
「隠居後は、何をなさるおつもりですか」
「まだ、はっきりとは決めていない。ただ、これまでの人生を振り返ると、フォスター家の当主として、決められた役割を、淡々とこなしてきただけのような気もしている。お前のように、自分の意志で、新しい何かに挑戦してみたいと、最近、強く思うようになった」
父の率直な吐露に、エレノアは、静かに耳を傾けた。
「もしよければ、ここでの領地運営を、少し手伝わせてもらえないだろうか」
その申し出に、エレノアもガレスも、目を見開いた。
「お父様が、ここで」
「長年、フォスター家の領地を治めてきた経験が、少しは役に立つかもしれない。もちろん、負担になるようなら、遠慮なく言ってくれ」
ガレスが、すぐに答えた。
「ぜひ、お力をお借りしたいです。伯爵のご経験は、私たちにとって、何よりの財産になるはずです」
「本当に、よろしいのか。私は、あくまで、口出しをするつもりはない。あくまで、必要なときに、助言をするだけの立場でいたい」
父の慎重な言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。
「お父様らしい、配慮ですね。でも、遠慮なさらず、いつでも、ご意見をお聞かせください」
その言葉に、父は、嬉しそうに頷いた。
翌日、父は、早速、トビアスと共に、村の視察に出かけた。エレノアとガレスも、二人に同行し、村の様子を、共に見て回った。長年の経験に基づいた父の助言に、トビアスも、熱心に耳を傾けていた。
「フォスター伯爵様のお話、とても勉強になります」
「いや、私こそ、お前たちの取り組みから、学ぶことばかりだ。これほど若い者が、これほど的確に、領地を運営しているとは、正直、驚かされる」
その様子を見守りながら、エレノアは、これまで別々だった、フォスター家とヴォルグレイブ家の知恵が、こうして自然に融合していく光景に、深い感慨を覚えた。
道すがら、村人たちも、父を温かく迎えた。
「エレノア様のお父上様が、いらしてくださるとは。娘様同様、きっと素晴らしい方なのでしょうね」
村の女性が、そう声をかけると、父は、照れくさそうに笑った。
「娘には、まだまだ及びませんが……よろしくお願いします」
その謙虚な姿勢に、村人たちは、すぐに好感を抱いたようだった。
村を回りながら、父は、いくつかの助言も残していった。
「この畑の配置は、水はけを考えると、少し工夫の余地があるかもしれない。フォスター領でも、似たような問題を、こう解決したことがある」
その具体的な助言に、トビアスは、熱心にメモを取っていた。
「フォスター伯爵様の経験、ぜひ、今後の計画に活かさせていただきます」
「いつでも、力になろう。……こうして、誰かの役に立てることが、これほど嬉しいとは、正直、これまで気づいていなかった」
その言葉に、エレノアは、父もまた、この土地で、新しい生きがいを見出しつつあることを、静かに感じ取った。
数日後、父が王都へ帰る日、エレノアは、見送りの際に、改めて礼を述べた。
「お父様、これからも、時々、こうして来てくださいね」
「もちろんだ。……エレノア、お前は、本当に立派になった。もう、私が案じることは、何もない」
「お父様がいてくださったからこそ、私は、いつも安心して、自分の道を選ぶことができました」
「いや。お前が、選ぶ力を、もともと持っていたのだ。私は、ただ、その力を、信じただけに過ぎない」
父は、そう言うと、エレノアの肩に、そっと手を置いた。
「これからも、ガレス殿と、この土地の皆と、幸せな日々を積み重ねていきなさい。それが、私にとっても、何よりの喜びだ」
その言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。
その晩、エレノアは手帳を開いた。
『お父様が、伯爵の職を譲る決意をされた。隠居後は、この土地の運営を手伝ってくださることに。私の選択が、お父様の人生にも、新しい一歩をもたらしたようだ』
書き終えて、エレノアは、窓の外に広がる、初夏の緑豊かな景色を見つめた。自分一人の選択が、こうして周りの人々の人生にも、静かな波紋を広げていく。その事実に、エレノアは、これまでにない、深い充実感を覚えていた。
かつて、婚約解消を決意したとき、エレノアは、自分自身のためだけに、その選択をしたつもりだった。だが今、振り返ってみれば、その選択は、父の生き方にも、リリアーヌやセドリックの人生にも、そして、この土地の人々にも、思いがけない形で、良い影響を及ぼしていた。
一つの決断が、これほど遠くまで、波紋を広げていくとは、あのときのエレノアには、想像もできなかった。だが今なら、はっきりと分かる。自分の人生を、自分の意志で選ぶということは、決して自分一人のためだけの選択ではないのだと。




