当たり前の日々
結婚式から一週間が経ち、屋敷には、少しずつ、新しい日常のリズムが戻ってきていた。
「おはようございます、奥様」
朝、トビアスに、そう呼びかけられ、エレノアは、思わず苦笑した。
「奥様、と呼ばれるのは、まだ、少し慣れないわね」
「でも、事実、そうなられたのですから」
トビアスの屈託のない笑顔に、エレノアも、自然と頬が緩んだ。
結婚後も、エレノアは、これまで通り、帳簿の整理と、トビアスへの指導を続けていた。夫婦となったことで、日々の暮らしに変化はあったが、仕事への向き合い方は、何一つ変わっていなかった。
朝食の席では、これまでと同じように、その日の予定を、二人で共有し合う習慣が続いていた。
「今日は、午後から、隣村の代官が、来年の水路整備の相談に来る予定です」
ガレスの言葉に、エレノアは、頷きながら手帳に書き留めた。
「では、私は、その前に、今年の予算の見通しをまとめておきますね」
「助かります。……こうして、毎日、予定を共有できることが、私にとっては、何よりの安心です」
その言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。かつて、予定を知らされずに待たされ続けた日々が、今では、想像もつかないほど、遠いものになっていた。
「今日は、秋の収穫量の最終確認をしましょう」
「はい、奥様」
書類を広げながら、エレノアとトビアスは、いつも通りの作業に取りかかった。数字を確認しながら、トビアスが、ふと手を止めた。
「奥様。こうして毎日、一緒に仕事ができることが、僕にとっては、何よりの喜びです。旦那様と結婚されても、変わらずこの仕事を続けてくださって、本当に嬉しいです」
「私も、同じ気持ちよ。あなたと一緒に、この土地の記録を、これからも守っていきたいわ」
その言葉に、トビアスは、誇らしげに頷いた。
その様子を、書斎から顔を出したガレスが、微笑ましそうに眺めていた。
「随分と、板についてきましたね。夫婦になっても、変わらず仕事に打ち込む姿は」
「変わる必要は、ないと思っています。むしろ、これまで通りの日々があるからこそ、私たちの関係も、自然な形で続いていけるのだと思います」
その言葉に、ガレスは、深く頷いた。
昼下がり、エレノアは、ガレスと共に、村の様子を見て回った。収穫を終えた畑には、来年の作付けに向けた準備が、着々と進められていた。
「今年の収穫は、例年以上の出来だそうです」
村長が、誇らしげに報告してくれた。
「それは、何よりです。皆さんの努力の賜物ですね」
エレノアの言葉に、村長は、深く頭を下げた。
「エレノア様が整えてくださった記録のおかげで、無駄なく、効率よく、作業を進められました。心から、感謝しております」
その報告に、エレノアは、静かな誇らしさを覚えた。自分の関わってきたことが、こうして目に見える成果として、村の暮らしを支えている。その実感は、これまでの人生では、あまり味わったことのないものだった。
畑の畦道を歩きながら、ガレスが、ふと足を止めた。
「来年は、この辺りに、新しい水路を通そうと思っています。エレノアの提案してくれた、四半期ごとの見直しのおかげで、必要な投資の見当が、随分と立てやすくなりました」
「それは、良い計画ですね。水はけが改善されれば、収穫量も、さらに安定するはずです」
二人は、しばらく、畑の様子を眺めながら、来年の計画について、具体的な話し合いを続けた。夫婦としてだけでなく、この土地を共に治める者同士としての、確かな信頼関係が、そこには築かれていた。
夕方、屋敷に戻ると、レジーナが、王都からの手紙を手渡してくれた。差出人は、父だった。
『結婚後の暮らしは、いかがか。心配は無用だと分かっているが、つい、様子が気になってしまう。近いうちに、また顔を見せに行こう』
その文面に、エレノアは、小さく笑みをこぼした。父の変わらぬ気遣いが、これまでと同じように、手紙の端々に滲んでいた。
手紙には、さらに、王都の近況も添えられていた。
『セドリック君は、モンド家での仕事に、すっかり馴染んでいるようだ。先日、街で偶然会ったが、以前とは見違えるほど、頼もしくなっていた』
その知らせに、エレノアは、静かに安堵した。かつての婚約者が、着実に、自分の道を歩んでいる。その事実が、これまでの日々の意味を、改めて肯定してくれるようだった。
返事には、エレノアも、近況を丁寧に綴った。
『こちらも、変わらず元気に過ごしております。トビアスも、日に日に頼もしくなり、村の皆さんとも、良い関係を築けています。お父様も、お体を大切に、また、ぜひ、お越しください』
書きながら、エレノアは、遠く離れた場所にいても、こうして言葉を交わし続けられる関係の、確かな温かさを感じていた。
夜、二人で夕食を取りながら、エレノアは、ふと、これからの暮らしについて、話を切り出した。
「これから先、私たちは、どんな日々を積み重ねていくのでしょうね」
「そうですね……。今と、大きく変わることはないと思います。ただ、一つ一つの日々を、これまで以上に、大切に過ごしていきたいと思っています」
ガレスの答えに、エレノアは、静かに頷いた。
「私も、同じ気持ちです。特別なことをするのではなく、当たり前の日々を、丁寧に積み重ねていく。それこそが、私がずっと望んでいたことなのだと思います」
その言葉に、ガレスは、優しく微笑んだ。
「以前、あなたが婚約解消を決意する前、『対等な相手として見てもらいたい』と、ずっと考えていたと、話してくれたことがありましたね。あの言葉が、今も、私の中に、深く刻まれています」
「よく、覚えていてくださいましたね」
「あなたが、これまでどれほどの我慢を重ねてきたか、その言葉を聞いて、改めて実感しました。だからこそ、これからの日々を、当たり前のように、大切にしていきたいと思っています」
その言葉に、エレノアは、静かに目を潤ませた。過去の痛みを、こうして誰かと分かち合い、そこから未来への糧に変えていける。それもまた、これまでの人生では、経験したことのない、確かな幸福だった。
食後、自室に戻ったエレノアは、手帳を開いた。
『結婚から一週間。日常が、少しずつ戻ってきている。特別なことより、当たり前の日々を大切にしたいと、改めて思う』
書き終えて、エレノアは、窓の外に広がる、夕暮れの景色を見つめた。かつて、当たり前のことを当たり前に扱ってもらえなかった日々があったからこそ、今、こうして積み重ねられる、何気ない日常の一つ一つが、これほどまでに、かけがえのないものに感じられた。
誕生日の夜、婚約者を待ちながら過ごした、あの孤独な時間。式典の壇上に、一人で立った日。そうした日々を経て、今、エレノアは、対等に想いを分かち合える相手と、共に日常を紡いでいる。その道のりを振り返るたびに、これまでの苦しみさえも、今の幸せへと至るための、必要な一歩だったのだと、静かに思えるようになっていた。
窓の外では、収穫を終えた畑の向こうに、夕日が、ゆっくりと沈んでいく。明日もまた、こうして穏やかな一日が始まるのだろう。その当たり前の繰り返しこそが、エレノアがずっと望んでいた、何よりの幸せだった。




