誓いの言葉
しばらく、ベッドの中で、これから始まる一日に思いを馳せた。緊張と、それを上回る喜びが、胸の中で、静かに渦を巻いていた。
「雨の心配は、いらなかったようですね」
身支度を手伝いに来たマーサが、そう言って、優しく微笑んだ。
「本当に。……それでも、皆さんが準備してくださった納屋は、無駄にはしません。披露宴の後半は、あちらでも、少し楽しませていただこうと思います」
エレノアの言葉に、マーサは、嬉しそうに頷いた。
村の女性たちが仕立ててくれた花嫁衣装に袖を通すと、エレノアは、鏡の前で、しばらくその姿を見つめた。柔らかな羊毛の生地に、丁寧な刺繍が施された、この土地ならではの、温かみのある衣装だった。袖口には、村の子どもたちが選んだという、小さな野の花の意匠が、控えめに縫い込まれている。
「この模様、村の皆さんが、一針一針、心を込めて縫ってくださったんですよ」
マーサが、そう教えてくれた。エレノアは、その一つ一つの縫い目に込められた思いを感じながら、静かに袖に触れた。
「本当に、お美しいですわ」
マーサが、目を潤ませながら、そう言った。
「マーサのおかげよ。ここまで、ずっと支えてくれて」
「お嬢様が、ご自分の力で、ここまで歩んでこられたのです。私は、ただ、その傍らにいさせていただいただけです」
支度が整うと、父が、部屋の入り口に姿を現した。
「エレノア……。本当に、綺麗だ」
その声は、わずかに震えていた。エレノアは、静かに父のもとへ歩み寄った。
「お父様、今日まで、本当にありがとうございました」
「いや。……礼を言うのは、こちらの方だ。お前が、こうして幸せな道を歩んでいく姿を見せてくれることが、何よりの親孝行だ」
父は、そう言うと、エレノアの手を、そっと取った。
「一つ、聞いてもいいか」
「何でしょう」
「後悔は、ないか。婚約解消のときも、王家との対立のときも、お前は、いつも自分の意志で、道を選んできた。この結婚も、そうした道の、一つの到達点だ」
「後悔は、ありません。むしろ、あの一つ一つの選択があったからこそ、今日という日を、心から迎えられるのだと思います」
その答えに、父は、深く頷いた。
「さあ、行こうか。皆が、待っている」
村の教会までの道のりを、エレノアは、父に手を引かれながら、ゆっくりと歩いた。道の両脇には、村人たちが、温かい笑顔で二人を見送っていた。
「エレノア様、おめでとうございます!」
「お綺麗ですよ!」
そうした声援の一つ一つに、エレノアは、静かに頭を下げながら、応えていった。
家畜小屋の一件で出会った女性が、道の脇で、涙ぐみながら手を振っていた。トビアスの家族も、総出で、祝いの言葉をかけてくれた。この一年余り、少しずつ築き上げてきた関係の一つ一つが、今日という日に、こうして温かい形となって、エレノアを包み込んでいた。
教会の扉が開かれると、そこには、すでに多くの人々が、席を埋め尽くしていた。フォスター家の親族、村の人々、そして、王都から駆けつけた顔見知りの姿もあった。中には、リリアーヌとその夫、そしてセドリックの姿もあった。三人は、揃って温かい笑顔で、エレノアを見つめていた。
祭壇の前には、正装に身を包んだガレスが、緊張した面持ちで、こちらを見つめていた。レジーナとトビアスは、最前列で、すでに目を潤ませている。
父と共に、バージンロードを歩む間、エレノアの脳裏には、これまでの一年余りの日々が、鮮やかに蘇っていた。誕生日の夜の失望、式典での孤独、婚約解消の決断、そして、この土地での数々の出会い。その一つ一つが、今この瞬間へと、確かに繋がっていた。
一歩ずつ、祭壇に近づくたびに、これまで支えてくれた人々の顔が、次々と目に映った。手を振るリリアーヌ、静かに見守るセドリック、涙ぐむレジーナとトビアス、そして誇らしげな父。誰一人として欠けることなく、この場に集ってくれている。その事実だけで、エレノアの胸は、これ以上ないほどの温かさで満たされていった。
祭壇の前に立つと、父は、エレノアの手を、静かにガレスへと委ねた。
「娘を、よろしく頼みます」
「命に代えても、大切にいたします」
ガレスの力強い返答に、父は、満足げに頷いた。
司祭の言葉に続き、二人は、誓いの言葉を交わした。
「富めるときも、貧しきときも、病めるときも、健やかなるときも、互いを尊重し、共に歩むことを誓いますか」
その言葉に、エレノアは、これまでの日々を、静かに思い返した。誰かに都合よく扱われることではなく、対等な相手として尊重される。それこそが、自分がずっと望んでいたものだった。
「誓います」
エレノアの声は、これまでの人生で経験してきた、どの瞬間よりも、澄み渡っていた。
「誓います」
ガレスの声も、確かな響きを持って、教会中に伝わった。その声には、これまで一人で背負ってきた重荷を、これから先は共に分かち合っていくという、確かな決意が込められていた。
指輪の交換が終わると、司祭が、二人の結婚を、高らかに宣言した。会場は、大きな拍手と、温かい祝福の声に包まれた。
「誓いの口づけを」
司祭の言葉に、二人は、静かに顔を近づけた。会場中の視線が、優しく二人を包み込む中、その口づけは、これまでの道のりのすべてを肯定するような、穏やかで、確かな時間だった。
エレノアは、ガレスと、静かに視線を交わした。その瞳には、これまでの道のりへの感謝と、これから始まる未来への、確かな希望が映っていた。
教会の外に出ると、秋の澄んだ日差しが、二人を優しく包み込んだ。村人たちが投げる、乾いた麦の穂が、祝福の雨のように、二人の周りに舞い落ちた。
「エレノア様! ガレス様!」
トビアスが、誰よりも大きな声で、二人を祝福した。その周りには、村中の人々が集まり、歓声と拍手が、いつまでも鳴り止まなかった。
リリアーヌが、駆け寄ってきて、エレノアの手を取った。
「本当に、綺麗でした。……エレノア様の幸せそうなお顔を見られて、私まで、幸せな気持ちになりました」
「ありがとうございます、リリアーヌ様」
セドリックも、少し離れた場所から、静かに頭を下げていた。その姿には、これまでの因縁を、完全に手放した者だけが持つ、穏やかな表情があった。
父が、最後に、二人のもとへ歩み寄ってきた。
「エレノア、ガレス殿。……本当に、おめでとう」
その声は、これまでのどの言葉よりも、深い喜びに満ちていた。
その光景を見つめながら、エレノアは、これまでの長い道のりの果てに、ついに辿り着いた、この上ない幸福を、静かに噛み締めていた。




