結婚式前夜
結婚式の前日、秋晴れの空の下、フォスター家からの一行が、ヴォルグレイブ領に到着した。父を先頭に、マーサや、屋敷の使用人たちも、久しぶりの再会を喜び合った。馬車から降り立った父の表情には、旅の疲れよりも、娘との再会を待ちわびていた喜びの方が、色濃く浮かんでいた。
「マーサ! 会いたかったわ」
エレノアが駆け寄ると、マーサは、目に涙を浮かべながら、エレノアを抱きしめた。
「お嬢様……いいえ、もう、お嬢様とお呼びするのも、明日までですね。本当に、立派になられて」
その言葉に、エレノアも、胸が熱くなった。かつて共に王都からこの地へ旅立った日のことが、懐かしく思い出された。
「マーサ、こちらでの新しい暮らしは、どう?」
「王都にはない、静かな時間が流れていて、悪くありませんよ。何より、お嬢様が幸せそうにお過ごしになっているのを見られるだけで、私も嬉しくて」
マーサの言葉に、エレノアは、これまでの日々を、共に見守ってくれた存在の大きさを、改めて実感した。
父は、屋敷の様子や、村の景色を眺めながら、感慨深げに言った。
「良い場所だ。お前が、ここで幸せに暮らしている理由が、よく分かる」
「お父様にも、この土地の温かさを、感じていただけて嬉しいです」
その日の夕方、村では、結婚式を前にした、ささやかな前夜祭が開かれた。村の広場には、収穫を終えたばかりの野菜や果物が並び、あちこちで、賑やかな笑い声が響いていた。村人たちが持ち寄った料理と、温かい歓談の輪の中で、フォスター家の一行も、村の人々と、すぐに打ち解けていった。
「エレノア様のお父上様でいらっしゃいますか。娘様は、本当に、この村の宝物ですよ」
村の女性が、そう父に話しかけると、父は、嬉しそうに目を細めた。
「そう言っていただけて、光栄です。娘が、ここまで多くの方々に愛されているとは、正直、想像以上でした」
村長も、父のもとへ挨拶にやってきた。
「フォスター伯爵様。娘様には、この土地で、本当にお世話になりました。帳簿の整理から、村の若者の育成まで、数え切れないほどのことをしていただきました」
「それは、こちらこそ、感謝申し上げます。娘が、誰かの役に立てているのなら、親として、これほど嬉しいことはありません」
二人のやり取りを聞きながら、エレノアは、これまでの日々が、こうして目に見える形で、認められていることに、静かな誇らしさを感じていた。
トビアスも、父に、これまでの帳簿整理の成果を、誇らしげに披露していた。
「フォスター伯爵様。エレノアさんに教わったことを、僕なりに、皆に伝えられるようになりました」
「それは、頼もしいことだ。エレノアが築いてきたものを、次の世代へ、確かに受け継いでくれているのだな」
父の言葉に、トビアスは、照れくさそうに頭を下げた。
その様子を見ながら、エレノアは、静かな幸福感に包まれていた。かつて別々だった二つの世界が、今、こうして自然に溶け合っている。
前夜祭がお開きになった後、エレノアは、ガレスと二人、屋敷の裏手にある、あの花壇へと足を運んだ。プロポーズを受けた、思い出の場所だった。
「明日から、私たちは、夫婦になるのですね」
エレノアがそう呟くと、ガレスは、静かに頷いた。
「はい。……この一年を振り返ると、本当に、色々なことがありました」
「誕生日の夜の失望から始まり、婚約解消、そして、この土地での新しい出会い。振り返れば、あっという間のようで、とても長い道のりでした」
「私も、両親を亡くしてから、ずっと一人で、この土地を守ることに必死でした。誰かと、こうして未来を語り合える日が来るとは、正直、思ってもみませんでした」
ガレスの言葉に、エレノアは、彼が歩んできた孤独な年月を、改めて思った。
「その道のりの果てに、今、あなたと共にいられることが、何よりの幸せです」
その言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。
「私も、同じ気持ちです。……明日は、緊張しますね」
「私も、正直、落ち着きません。ですが、あなたと共に迎える朝だと思うと、それだけで、心強く感じます」
二人は、しばらく、花壇に咲く秋の花々を眺めながら、静かな時間を過ごした。虫の音が、夜の静寂に、優しく響いていた。
「この花壇に、また一つ、新しい思い出が加わりましたね」
エレノアがそう言うと、ガレスは、優しく頷いた。
「これから先も、この場所には、たくさんの思い出が積み重なっていくのでしょうね。子どもたちと一緒に、花を見に来る日も、いつか来るかもしれません」
その言葉に、エレノアは、まだ見ぬ未来の光景を、静かに思い描いた。悲しみの記憶しかなかったこの場所が、今、二人の幸せな未来への希望を映す場所へと、確かに変わりつつあった。
屋敷に戻ると、レジーナが、明日の段取りを、最終確認していた。
「衣装、料理、会場の飾り付け、すべて、滞りなく整っています。あとは、皆で、当日を楽しむだけですよ」
その言葉に、エレノアもガレスも、深く頷いた。
「レジーナ様には、本当に、お世話になりました」
エレノアがそう言うと、レジーナは、いつになく優しい表情を見せた。
「お礼を言うのは、こちらの方です。あなたが来てくれたおかげで、この屋敷は、これほど温かい場所になりました。……明日は、心から楽しんでくださいね」
その言葉に、エレノアは、静かに頭を下げた。
夜も更け、エレノアが自室へ戻る前、父が、廊下で声をかけてきた。
「エレノア。少し、話をしても良いか」
「もちろんです、お父様」
父は、しばらく言葉を選ぶように黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。
「お前が、婚約解消を決意したとき、正直、これから先、どうなるのか、不安でならなかった。だが今、こうしてお前の幸せそうな姿を見られて、あのとき、お前の判断を尊重して、本当に良かったと思っている」
「お父様が、いつも私の意志を尊重してくださったから、今の私がいます」
「いや。お前自身が、自分の力で、この幸せを掴み取ったのだ。私は、ただ、その姿を、見守っていただけに過ぎない」
その言葉に、エレノアは、静かに目を潤ませた。
自室に戻り、エレノアは、これが独身最後の夜になることを、改めて実感しながら、手帳を開いた。
『結婚式前夜。フォスター家の皆が到着し、村の前夜祭で、二つの世界が温かく溶け合った。花壇で、ガレス様と、これまでの道のりを振り返った』
書き終えて、エレノアは、これまでの手帳のページを、最後に、もう一度だけ、丁寧にめくり返してみた。
誕生日の夜、婚約者を待ちながら、初めて違和感を覚えた日。式典の壇上に、一人立った日。婚約解消を決意した夜。そして、この土地で出会った、数え切れないほどの温かな出来事。その一つ一つが、今、明日という特別な日を迎えるための、確かな礎になっていた。
エレノアは、ペンを取り、最後の一行を、丁寧に書き加えた。
『明日、私は、自分の意志で選んだ人と、自分の意志で選んだ場所で、新しい人生を始める』
書き終えて、エレノアは、窓の外の夜空を見上げた。満天の星が、これから始まる新しい章を、静かに祝福しているように思えた。
長い我慢と、静かな気づきと、そして自らの意志で選んだ決断。その一つ一つが、明日という日に、確かに結実しようとしていた。




