それぞれの新しい人生
プロポーズの翌朝、目が覚めると、エレノアは、まず自分の指にはめられた指輪を確かめた。夢ではなかったのだと、その冷たい感触が、静かに教えてくれる。
朝食の席で、ガレスも、少し照れくさそうに、同じように指輪を確かめる仕草を見せた。二人は、それに気づいて、思わず笑い合った。
食後、エレノアは、まず父への手紙をしたためた。喜びを、丁寧な言葉で綴った手紙だった。
『ガレス様から、正式にプロポーズを受けました。謹んで、お受けいたしました』
返事は、驚くほど早く届いた。
『待ちに待った知らせだ。心から、祝福する。婚約発表の日取りが決まったら、すぐに知らせなさい。私も、盛大に祝う準備をしよう』
その文面には、これまでにない、父の弾んだ気持ちが、はっきりと表れていた。手紙の最後には、こう付け加えられていた。
『お前の母の姉が、あちらへ嫁いでから、これほど長い年月を経て、こうして縁が結ばれるとは、感慨深いものがある。天国の母も、きっと喜んでいるだろう』
その一文に、エレノアは、目頭が熱くなった。会ったことのない母と伯母の存在が、こうして自分の幸せの中に、確かに息づいている。その繋がりを、改めて実感した。
婚約発表に向けて、屋敷では、様々な準備が進められた。まず、正式な発表の前に、両家に礼を尽くすべき相手として、ラングフォード侯爵家にも、事情を伝える手紙を送ることになった。
「セドリック様のお家にも、きちんとお伝えするべきだと思います」
エレノアの提案に、ガレスも頷いた。
「その通りですね。かつての婚約者のご家族への、礼儀ですから」
手紙をしたためながら、エレノアは、以前の自分なら、この手紙を書くことすら、大きな緊張を伴う作業だったろうと思った。だが今は、過去を恨む気持ちも、気まずさも、不思議なほど残っていなかった。ただ、これまでの縁への、静かな感謝だけがあった。
手紙には、婚約解消の経緯を蒸し返すことなく、ただ、これから新しい人生を歩むことへの、簡潔な報告のみを記した。数日後、侯爵からは、思いのほか温かい返事が届いた。
『ご報告、ありがたく拝見しました。心よりお祝い申し上げます。息子も、あなたのことを、今も敬意を持って語っております。どうか、末永くお幸せに』
その一文に、エレノアは、これまでの因縁が、静かに、そして確かに、良い形で幕を閉じたことを実感した。
手紙には、さらに、侯爵からの近況も添えられていた。
『息子は、モンド家の商いを、真剣に学んでおります。近い将来、正式に婿養子として迎えられる話も、進んでいるようです』
その知らせに、エレノアは、小さく驚いた。セドリックが、モンド家の一員として、新しい人生を歩もうとしている。かつての婚約者が、こうして自分の道を、確かに見つけつつあることが、素直に嬉しかった。
村では、二人の婚約の知らせが、あっという間に広まった。屋敷を訪れる村人たちが、口々に祝いの言葉をかけてくれる。
「旦那様に、こんなに素敵な方が来てくださるなんて、村の宝物ですよ」
「末永く、お幸せに!」
家畜小屋の一件で出会った女性が、花束を手に、屋敷を訪ねてきた。
「エレノア様、覚えていらっしゃいますか。あのとき、旦那様の独り身を心配していたのは、私なんです」
「もちろん、覚えています」
「本当に、良かった。あの日、村の皆で、旦那様に良いご縁がありますようにって、話していたんです。それが、こうして叶うなんて」
その言葉に、エレノアは、胸が熱くなった。この土地の人々の、飾らない祝福の一つ一つが、これまでのどんな社交辞令よりも、深く心に染み渡った。
その温かい歓迎に、エレノアは、この土地に来てからの日々の重みを、改めて噛み締めた。
婚約発表の準備を進める中、エレノアの元に、リリアーヌから、結婚式への正式な招待状が届いた。日取りは、来月の第二週。ちょうど、エレノアたちの婚約発表と、時期が重なりそうだった。
「私たちの発表を、少し遅らせましょうか」
エレノアが提案すると、ガレスは首を振った。
「いえ、むしろ、良い機会だと思います。リリアーヌ様の結婚式に出席し、そこで自然な形で、私たちのことも、お伝えできればと」
その提案に、エレノアも頷いた。かつての婚約者の幼馴染の結婚式で、新しい門出を報告する。因縁めいた巡り合わせだったが、それもまた、これまでの物語の、自然な続きのように思えた。
「リリアーヌ様への贈り物は、何が良いでしょうか」
エレノアがそう相談すると、レジーナが、興味深そうに口を挟んだ。
「ヴォルグレイブ領特産の、良質な羊毛の織物などは、いかがでしょう。新生活の門出に、実用的で、心のこもった品になるはずです」
「それは、良い案ですね。トビアスにも、選定を手伝ってもらいましょう」
こうして、贈り物の準備も、屋敷の皆で、和やかに進められていった。
「リリアーヌ様には、婚約解消の後、随分と助けていただきました。今度は、心を込めて、お祝いしたいと思います」
エレノアがそう言うと、レジーナは、感慨深げに頷いた。
「因縁というものは、こうして巡り巡って、良い形に落ち着くものなのですね」
その言葉に、エレノアも、静かに頷いた。過去の出来事の一つ一つが、今の幸せへと繋がる、確かな道筋の一部だったのだと、改めて実感していた。
準備の合間、エレノアはトビアスと共に、屋敷の帳簿の整理を続けていた。結婚後も、仕事を続けるという決意に、迷いはなかった。
「エレノアさんが結婚されても、僕たちの仕事は、何も変わらないんですね」
トビアスの言葉に、エレノアは微笑んだ。
「ええ。むしろ、これからも、もっと色々なことを、一緒にやっていきましょう」
その言葉に、トビアスは、誇らしげに頷いた。
「実は、僕、密かに目標を立てているんです。いつか、エレノアさんのように、他の若い子に、記録の付け方を教えられるような人間になりたいと」
「それは、素敵な目標ね。あなたなら、きっとなれるわ」
「ありがとうございます! ……エレノアさんに出会えたことが、僕の人生で、一番の幸運でした」
その率直な言葉に、エレノアは、胸が温かくなるのを感じた。この土地に来てから築いてきた関係が、こうして次の世代へと、確かに受け継がれていく。その手応えを、改めて実感する瞬間だった。
夜、自室に戻ったエレノアは、手帳を開いた。
『婚約発表の準備が進む。ラングフォード侯爵家から温かい返事。リリアーヌ様の結婚式への出席が決まった』
書き終えて、エレノアは、窓の外に広がる、夜の静けさに、しばらく耳を澄ませた。これまでの人生で経験してきた、数々の出来事が、こうして一つずつ、穏やかな形で決着していく。その過程を、エレノアは、静かな満足感と共に、見届けていた。
かつての婚約者との関係、王家との対立、そして、この土地で築いてきた数々の絆。それぞれが、異なる形の困難を伴っていた。だが、そのどれもが、逃げることなく、正面から向き合ってきたからこそ、今、こうして穏やかな結末を迎えられているのだと、エレノアは実感していた。
来月には、リリアーヌの結婚式があり、その後には、自分たちの婚約発表が続く。慌ただしい日々が、まだしばらくは続くだろう。だが、その慌ただしさすら、これまでの不安に満ちた日々とは、まるで違う種類の、前向きなものに感じられた。
窓の外では、初夏を思わせる、柔らかな夜風が、カーテンを揺らしていた。新しい季節の訪れと共に、二人の未来も、確かな形を帯び始めていた。




