それぞれの道
公爵家との対面から数日、王都では、後始末のための細々とした手続きが続いた。正式な取り下げの書状、王家への報告書。エレノアも、その作成を手伝いながら、事の顛末が、確かな形で幕を閉じていくのを見届けた。
手続きの合間、王家の担当文官が、以前とは打って変わった態度で、丁重に接してくれるようになった。
「先日の資料、大変勉強になりました。他の辺境伯領にも、参考にしていただきたいくらいです」
その言葉に、エレノアは、少しくすぐったい気持ちになった。厄介者として扱われていたはずの状況が、こうして評価に転じる瞬間を、目の当たりにするとは、思ってもみなかった。
「これで、正式に、縁談は白紙になりました」
ガレスが、最後の書類に署名をしながら、深く息を吐いた。
「本当に、お疲れ様でした」
エレノアがそう労うと、ガレスは、これまでの緊張が解けたような、柔らかな笑みを浮かべた。
「あなたと、伯爵のおかげです。一人だったら、どうなっていたことか」
「私も、あなたのために動けたことが、嬉しかったのです」
その言葉に、二人は、静かに見つめ合った。
「エレノア。今回のことで、改めて実感しました。あなたと築いてきた関係は、単に想い合うだけのものではなく、共に困難を乗り越えられる、確かな絆なのだと」
「私も、同じ気持ちです。誰かと一緒に、こうして戦えることが、これほど心強いものだとは、思ってもみませんでした」
その言葉に、ガレスは、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
滞在の最終日、エレノアは、王都で暮らす友人知人に、いくつか挨拶回りをした。その道すがら、思いがけず、セドリックとも顔を合わせた。
「エレノア。……久しぶりだな」
「セドリック様。お元気そうで、何よりです」
セドリックは、以前よりも、落ち着いた表情をしていた。以前の、どこか頼りなげな雰囲気は、すっかり影を潜めている。
「モンド家の仕事は、順調ですか」
「ああ。最近は、帳簿の付け方も、少しずつ覚えてきた。……エレノアに教わったことも、いくつか役に立っている」
その言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。かつての婚約者が、自分の言葉から、何かを学び、前に進んでいる。その事実が、素直に嬉しかった。
「実は、来月、リリアーヌの結婚式があるんだ。……エレノアにも、招待状を送ろうかと、迷っていたところで」
「ぜひ、お招きください。心からお祝いしたいです」
「そう言ってもらえると、助かるよ。……エレノアがいなければ、僕は、こうして人として、成長する機会すら、得られなかったかもしれない」
セドリックの言葉には、これまでの反省と、それを乗り越えようとする、確かな意志が滲んでいた。
「そちらの方は」
セドリックの視線が、少し離れた場所に立つガレスへと向いた。
「ヴォルグレイブ辺境伯です。……近々、正式な形でのご報告ができると思います」
セドリックは、少し離れた場所からこちらを見守るガレスに、丁寧に会釈をした。ガレスも、静かに礼を返す。二人の間に、これといった言葉は交わされなかったが、その短いやり取りの中に、互いを認め合う、静かな敬意が感じられた。
「そうか。……エレノアが、幸せそうで、本当に良かった」
その一言には、これまでのわだかまりを、静かに手放したような、穏やかな響きがあった。
「セドリック様も、良いご縁がありますように」
「ああ。……ありがとう」
セドリックは、そこで少し躊躇うような素振りを見せたあと、静かに続けた。
「最後に、一つだけ言わせてほしい。あの頃の僕は、本当に、身勝手だった。エレノアがどれだけ我慢してくれていたか、当時は、まるで分かっていなかった」
「今、分かってくださっているなら、それで十分です」
「……ありがとう。その言葉だけで、救われる気がする」
短いやり取りを終え、二人は、それぞれの道を歩いていった。過去との対話が、こうして穏やかな形で終わることに、エレノアは、深い安堵を覚えた。憎しみでも、未練でもなく、ただ、それぞれの人生を歩む者同士としての、静かな敬意だけが、そこには残っていた。
帰路につく朝、フォスター家では、父が、盛大とは言わないまでも、心のこもった見送りをしてくれた。
「無事に、事が収まって、何よりだ。……次に会うときは、もっと嬉しい報告を、聞かせてもらえるだろう」
その言葉の含みに、エレノアは、頬を染めながら頷いた。
「エレノアを、よろしくお願いします」
父の言葉に、ガレスは、深く頭を下げた。
「命に代えても、お守りします」
その力強い言葉に、父は満足げに笑った。
「大げさな誓いだが……あなたなら、その言葉に、確かな重みがあると信じられる」
父は、そう言うと、エレノアの肩に、そっと手を置いた。
「お前の母が、生きていれば、どれほど喜んだだろう。……幸せになりなさい、エレノア」
その言葉に、エレノアは、目頭が熱くなるのを感じた。これまでの数か月、いや、これまでの人生全体を通して、これほど純粋な祝福の言葉を、父からもらったことはなかった。
ヴォルグレイブ領へ戻る道中、馬車の窓からは、すっかり春めいた景色が流れていった。エレノアは、この数週間の出来事を、静かに振り返っていた。
王家からの圧力、公爵家との対面、そしてセドリックとの穏やかな再会。どれもが、これまでの自分では、乗り越えられなかったであろう試練だった。だが今、その一つ一つを乗り越えた先に、確かな安堵と、これから始まる新しい未来への期待が、静かに広がっていた。
手帳を開き、エレノアは、この数週間の出来事を、丁寧に書き記した。
『ハミルトン公爵家との縁談、白紙に。セドリック様と穏やかに再会し、過去のわだかまりを手放すことができた。お父様から、心からの祝福をいただいた』
書き終えて、エレノアは、これまでの手帳のページを、ゆっくりとめくり返してみた。誕生日の夜の失望から始まった記録は、今や、これほどまでに、多くの喜びと成長を刻んだものへと変わっていた。
「屋敷に戻ったら、まずは、皆に、無事に事が収まったことを報告しましょう」
ガレスの言葉に、エレノアは、深く頷いた。
「トビアスも、レジーナ様も、きっと、心待ちにしています」
ヴォルグレイブ領に到着すると、レジーナとトビアスが、屋敷の前で、今か今かと二人の帰りを待ちわびていた。
「お帰りなさいませ! 無事に、収まったのですね」
トビアスが、真っ先に駆け寄ってきた。
「ええ、すべて、丸く収まりました。トビアスが留守を守ってくれたおかげで、安心して、王都でのことに集中できたわ」
「そんな、僕は、当たり前のことをしただけです」
謙遜するトビアスの肩を、レジーナが、優しく叩いた。
「当たり前のことを、きちんとやり遂げるのが、一番難しいのですよ。よくやりました」
その光景を見ながら、エレノアは、この屋敷が、いつの間にか、自分にとって、かけがえのない場所になっていることを、改めて実感した。
窓の外に広がる緑豊かな大地を眺めながら、エレノアは、これから待つ日々に、静かな期待を寄せていた。長い冬を越え、ようやく訪れた春の光が、これから先の二人の道を、優しく照らしているように思えた。




