公爵との対面
王都の宿に到着すると、エレノアと父を、ガレスが自ら出迎えた。その顔には、この数週間の心労が、はっきりと刻まれていた。
「エレノア……。まさか、来てくれるとは」
「資料が仕上がりました。それに、あなた一人に、この重荷を背負わせておくわけにはいきません」
エレノアがそう言うと、ガレスは、しばらく言葉を失っていた。やがて、深く頭を下げる。
「フォスター伯爵、エレノア。……本当に、ありがとうございます」
「無理はしていないか」
ガレスが、心配そうにエレノアの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。……それより、あなたの方こそ、随分と、お疲れのようですが」
「正直、この数週間、まともに眠れていません。ですが、あなたの顔を見て、少し、力が湧いてきました」
その言葉に、エレノアは、静かに頬を緩めた。
三人は、宿の一室で、これまでの経緯と、これからの方針を、綿密にすり合わせた。父の伝手により、翌日には、ハミルトン公爵本人との面会が叶うことになった。
「文官やご子息を相手にするのとは、話が違う。公爵本人が出てくるということは、それだけ、こちらの動きを、無視できなくなっている証拠だ」
父の分析に、ガレスも、エレノアも、緊張を隠せなかった。
宿の窓から見える王都の夜景を眺めながら、エレノアは、これまでの旅路を思い返していた。誕生日の夜の失望から、婚約解消、そして北の領地での新しい暮らし。その一つ一つの経験が、今この瞬間のために、積み重なってきたように思えた。
その夜、エレノアは、資料の最終確認を、何度も繰り返した。数字の一つ一つに間違いがないか、説明の順序は分かりやすいか。ガレスも、その様子を見守りながら、時折、鋭い質問を投げかけた。
「ここの防備計画についてですが、実際に村々の協力を得られる見込みは」
「村長たちには、すでに大まかな話を通してあります。皆、快く協力すると言ってくれました」
「さすがです。……あなたがいてくれて、本当に心強い」
その言葉に、エレノアは、静かに微笑んだ。二人で力を合わせて準備を進める時間は、不安と同時に、確かな一体感をもたらしていた。
翌日、三人は、ハミルトン公爵家の広壮な屋敷を訪れた。応接間に通されると、初老の、しかし鋭い眼光を持つ男が、静かに二人を待っていた。
「ヴォルグレイブ卿。それに、フォスター伯爵。……こちらのご令嬢は」
「エレノア・フォスターと申します。ヴォルグレイブ領の帳簿及び記録の整備を、正式に担っております」
エレノアは、臆することなく、はっきりと名乗った。公爵は、興味深そうに、エレノアを見つめた。
「ほう。……女性が、そのような役目を」
「本日は、ヴォルグレイブ領の実情について、資料をご覧いただきたく参りました」
エレノアは、持参した資料を、丁寧に机上に広げた。収支の推移、商会との取引実績、防備強化の具体案。公爵は、しばらく無言で、それらに目を通していった。応接間には、緊張した沈黙が流れる。壁に飾られた歴代当主の肖像画が、まるでこちらを見下ろしているようだった。
「……なるほど。確かに、堅実な運営がなされている」
「ヴォルグレイブ領は、公爵家の後ろ盾がなくとも、独自に発展を続けられる基盤を、すでに築いております。防備の強化についても、村々の見回り体制の増強と、物見櫓の増設により、十分な対応が可能と考えております」
エレノアの説明は、淀みなかった。数字の一つ一つに、これまでの実務の裏付けがあった。
公爵は、資料を閉じると、しばらく黙考した後、ガレスに視線を向けた。
「この防備計画は、誰が立案したものかね」
「エレノアです。私一人では、ここまで具体的な形にはできませんでした」
その答えに、公爵は、興味深そうにエレノアを見つめ直した。
「フォスター伯爵家の令嬢が、なぜ、このような実務に長けておられる」
「幼い頃から、父の領地経営を手伝ってまいりました。数字と向き合うことが、性に合っているのだと思います」
エレノアの答えに、公爵は、小さく感心したように頷いた。
「卿は、この縁組みを、あくまで拒むおつもりか」
「はい。エレノアへの想いは、何があっても変わりません」
その即答に、公爵は、かすかに口元を緩めた。
「……率直に申し上げよう。私自身、この縁組みには、当初から、それほど乗り気ではなかった。息子が、いささか勇み足で話を進めたきらいがある」
その言葉に、三人は、思わず顔を見合わせた。
「娘のソフィアにも、先日、率直に胸の内を聞いた。……あの子は、望んでいなかったよ。ただ、家のためにと、自分を殺していただけだ」
公爵の言葉には、娘への複雑な思いが滲んでいた。
「実を言うと、あの子には、以前から想いを寄せている相手がいるらしい。身分は釣り合わぬ、下級貴族の青年だそうだが……。今回の縁組みが白紙になれば、その話も、改めて考えてやろうと思っている」
その打ち明け話に、エレノアは、思わずソフィアの立場に、深く同情した。会ったことのない相手だが、自分もまた、かつて似たような重圧の中で、自分の意志を押し殺していた時期があった。
「ソフィア様が、ご自身の想いを貫けますよう、願っております」
エレノアの言葉に、公爵は、少し驚いたように目を見開き、それから、穏やかに笑った。
「フォスター伯爵家の令嬢は、随分と、情の深い方のようだ」
「予算配分の件は、忘れてくれて構わない。あれは、息子の勇み足でもあった。ヴォルグレイブ卿の実績を見れば、そもそも、後ろ盾など必要ないことは明白だ」
その言葉に、ガレスとエレノアは、静かに安堵の息を吐いた。
「ただし」
公爵は、そこで一度、言葉を切った。
「この件が、貴殿らの実力によって収まったことは、忘れないでいただきたい。今後も、辺境の守りを、しっかりと頼みますぞ」
「必ず、ご期待に応えます」
ガレスの言葉に、公爵は満足げに頷いた。
屋敷を辞したあと、三人は、しばらく無言のまま、通りを歩いた。緊張が解けた反動か、エレノアの足取りは、まだどこか覚束なかった。
「終わった、のですね」
「ええ。……本当に、あなたのおかげです」
ガレスが、エレノアの手を、そっと握った。その温もりに、これまでの不安が、ようやく解けていくのを感じた。
父が、少し離れた場所から、二人の様子を、静かに見守っていた。
「エレノア。……お前が、これほどまでに、誰かのために力を尽くす姿を見たのは、初めてかもしれない」
「お父様のおかげです。ここまで導いてくださって」
「いや、道筋を示しただけだ。実際に、資料をまとめ、公爵の前で堂々と語ったのは、お前自身の力だ」
その言葉に、エレノアは、深く頭を下げた。
「私は、少し、遠慮しよう」
父が、そう言って、さりげなく前を歩いていった。その気遣いに、二人は思わず笑い合った。
夕暮れの王都の街を、二人並んで歩きながら、エレノアは、これまでの数週間の緊張が、静かに解けていくのを感じていた。
「これで、ようやく、正式な婚約の話を、進められそうですね」
エレノアがそう呟くと、ガレスは、足を止め、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「エレノア。この件が落ち着いたら、改めて、きちんとした形で、お願いしたいことがあります」
その言葉に、エレノアの胸が、静かに高鳴った。
「今は、まだ言いません。……もう少し、状況が整ってから、必ず」
「楽しみに、待っています」
二人は、どちらからともなく、微笑み合った。夕暮れの光が、街並みを、柔らかな橙色に染めていく。数字と実績で、大きな壁を乗り越えた今、二人の未来には、また一つ、確かな光が差し込んでいた。




