王都へ
父からの返信は、五日後に届いた。文面には、これまでの父らしい、冷静な分析が綴られていた。
『お前の考えは、理にかなっている。ただし、資料だけを送りつけても、王家の役人は、まともに取り合わないだろう。大切なのは、誰が、どのようにその資料を届けるかだ』
続けて、父は具体的な助言を記していた。
『私も、多少は王都に伝手がある。共に王都へ赴き、しかるべき筋に話を通そう。それに、ヴォルグレイブ卿一人で公爵家と渡り合うより、フォスター家の名を出した方が、多少なりとも重みが増すはずだ』
『ハミルトン公爵とは、社交の場で何度か言葉を交わしたことがある。強引な方だが、道理の通らないことをむやみに押し通す人物ではない、というのが私の印象だ。事実を積み上げれば、必ず道は開ける』
その分析に、エレノアは、これまで見えていなかった突破口が、少しずつ形になっていくのを感じた。ただ怯えているだけでは、何も見えてこなかったものが、こうして具体的な策として、目の前に現れ始めていた。一人で抱え込む必要はない。これまで積み重ねてきた縁が、こうして力になろうとしている。
手紙の最後には、こう締めくくられていた。
『お前が選んだ道を、私は誇りに思う。困難な状況だが、二人で、また一つ乗り越えていきなさい』
その一文に、エレノアは、思わず目頭が熱くなった。婚約解消の折、判断材料を揃えるだけに留めていた父が、今回は、はっきりと「二人で」と書き記していた。その一言に、これまでの父の変化も、静かに滲んでいた。
資料は、その週のうちに、ほぼ完成の域に達した。収支の推移、商会との取引実績、防備強化の具体的な計画案。どれも、感情論ではなく、確かな事実に基づいたものだった。
「これなら、十分に説得力があると思います」
トビアスが、まとめ上げた資料を見て、誇らしげに言った。エレノアも、深く頷いた。
資料の表紙には、この三年間の実績を象徴する数字が、大きく記されている。羊毛の取引量、村々の人口の推移、そして、これまで独自に築き上げてきた防備の体制。どれもが、公爵家の後ろ盾を借りずとも、この土地が着実に発展してきたことを、雄弁に物語っていた。
「ここまで仕上がるとは、思いませんでした」
トビアスが、感慨深げに呟いた。エレノアも、この数か月の積み重ねが、こうして一つの形になったことに、静かな達成感を覚えていた。
「あとは、これを、どう届けるか」
その問いに、レジーナが、静かに口を挟んだ。
「エレノアさん自身が、王都へ向かうべきだと思います。数字の意味を、誰よりも理解しているのは、あなたなのですから」
その提案に、エレノアは、一瞬たじろいだ。
「ですが、以前、ガレス様は、私を表立って同行させることに、慎重でした」
「あれは、恋愛の話として、憶測を招くことを懸念してのことでしょう。ですが今回は、あくまで、領地運営の実務者として同行するのです。話は別のはずですよ」
その理屈に、エレノアは、静かに頷いた。だが、それでもなお、一抹の不安は残っていた。
「私が出ていくことで、かえって、事態をこじらせることにならないでしょうか」
「なりません」
レジーナは、きっぱりと言い切った。
「王家の役人たちは、感情ではなく、力関係で物を見ます。あなたが、ただの婚約者候補としてではなく、領地運営に確かな実績を持つ人物として現れれば、その存在自体が、一つの説得材料になるはずです」
その言葉に、エレノアは、少しずつ、迷いが晴れていくのを感じた。父からの手紙にも、後押しするような一文があった。
『お前が直接、資料の説明にあたることも、検討してよいだろう。実務に精通した者が語る言葉には、それだけの重みがある』
その言葉に背中を押され、エレノアは、王都へ向かう決意を固めた。
出発の前夜、エレノアは、屋敷の皆に事情を説明した。
「私も、王都へ向かい、ガレス様の力になりたいと思います」
トビアスは、力強く頷いた。
「僕は、留守を守ります。エレノアさんが安心して行けるように、しっかりやります」
「ありがとう、トビアス。あなたなら、大丈夫だと信じているわ」
「エレノアさんが最初にここへ来た日のこと、よく覚えています。あのときから、ずっと、この屋敷のために、たくさんのことを教えてくださいました。今度は、僕が、その恩返しをする番です」
その言葉に、エレノアは、胸が熱くなるのを感じた。まだ若いトビアスが、こうして頼もしく成長した姿を見られることも、この土地に来て得た、大きな喜びの一つだった。
レジーナも、旅支度を手伝いながら、エレノアの手を、そっと握った。
「あなたが動くと決めたのなら、私は、それを応援します。……ガレスのことを、どうか、よろしくお願いします」
「必ず、良い報告を持って帰ります」
「ええ、期待していますよ」
レジーナは、そう言って、いつになく優しい笑みを浮かべた。長年、この屋敷を守ってきた彼女の目に、エレノアの姿が、どのように映っているのか。その温かな眼差しから、確かな信頼が伝わってきた。
その晩、エレノアは、旅の荷物の中に、ガレスが届けてくれた、あの古い手紙も、そっと忍ばせた。北の地へ嫁いだ人を、温かく迎えようとした誰かの言葉が、今、思いがけない形で、自分を支えてくれるような気がした。
翌朝、フォスター家から迎えに来た父と合流し、エレノアは王都へと向かう馬車に乗り込んだ。窓の外には、雪解けがすっかり進んだ、緑の萌え始めた大地が広がっていた。
「怖くはないか」
道中、父がふと尋ねた。
「怖くない、と言えば嘘になります。ですが、何もせずに待っているより、ずっと気持ちが落ち着いています」
「そうか。……お前は、本当に強くなったな」
その言葉に、エレノアは静かに微笑んだ。強くなった、というより、自分にできることを、恐れずに選べるようになっただけだった。
「お父様は、ハミルトン公爵家について、何かご存じですか」
「顔を合わせたことは、数えるほどしかない。だが、あの家の当主は、実利を重んじる方だと聞いている。感情論には動かされないだろうが、逆に言えば、確かな利益さえ示せれば、話を聞く余地はあるということだ」
「では、私たちの資料は」
「悪くない一手だ。ただし、決め手になるかどうかは、当日の交渉次第だろう。……エレノア、一つだけ、覚えておきなさい」
父は、そこで一度、真剣な眼差しをエレノアに向けた。
「相手が格上だからといって、卑屈になる必要はない。お前が示すのは、事実であり、実績だ。堂々と、胸を張って話しなさい」
その言葉に、エレノアは、深く頷いた。
王都が近づくにつれ、エレノアの胸には、ガレスに会える喜びと、これから始まる交渉への緊張が、複雑に入り混じっていた。
これまでの道のりを、改めて振り返る。誕生日の夜、一人で笑顔を作っていたあの頃の自分には、こうして誰かのために、堂々と交渉の場に立つ日が来るとは、想像もできなかっただろう。だが今は、違う。自分の言葉と、自分の積み重ねてきた実績を武器に、大切な人のために、戦うことができる。
手にした資料の束を、しっかりと抱えながら、エレノアは、これから訪れる戦いに、静かに心を整えていた。
馬車の窓から見える王都の街並みは、以前、婚約を解消したときとは、まるで違って見えた。あの頃は、ただ、この街を出ていくことだけを考えていた。今は、この街で、新しい未来を切り開くために、戻ってきている。その違いを噛み締めながら、エレノアは、これから会うガレスの顔を、静かに思い浮かべた。




