数字で示す
急使が屋敷に到着したのは、翌々日の夕刻だった。エレノアは、手紙を受け取ると、その場で封を切り、一気に読み進めた。
ハミルトン公爵家、国境防備の予算、一月の期限。文字を追うごとに、エレノアの手が、かすかに震えた。
だが、手紙の終わりに記された「必ず、あなたを選びます」という一文を読んだとき、震えは、少しずつ収まっていった。彼が、逃げることなく、正面から向き合おうとしていることが、その言葉からはっきりと伝わってきた。
「エレノアさん、顔色が」
トビアスが心配そうに声をかけてきたが、エレノアは、しばらく答えることができなかった。ようやく口を開いたのは、しばらく経ってからだった。
「大丈夫よ。……ただ、少し、大きな話が持ち上がっただけ」
そう答えながらも、エレノアの頭の中では、すでに次にすべきことを、必死に考え始めていた。
その晩、エレノアはレジーナに手紙の内容を伝えた。レジーナは、これまでにない険しい表情で、話を聞いていた。
「ハミルトン公爵家……。厄介な相手に目をつけられましたね」
「レジーナ様は、公爵家について、何かご存じですか」
「王家に次ぐ勢力を持つ、名門中の名門です。あの家に睨まれて、無事でいられる貴族は、そう多くありません。ですが」
レジーナは、そこで一度言葉を切り、エレノアをまっすぐに見た。
「だからといって、諦める必要はありません。ガレスが、はっきりと拒絶の意志を示したことは、大きな一歩です。あとは、その意志を、いかに裏付けるかです」
その言葉に、エレノアは、静かに頷いた。
「予算配分をちらつかせるというのは、そこまで、実際に影響のある話なのですか」
「残念ながら、あり得ない話ではありません。国境防備の予算は、毎年、王家の裁量次第です。有力な後ろ盾がなければ、不利になることも、十分に考えられます」
その説明に、エレノアは、静かに拳を握った。ただ待っているだけでは、何も変わらない。何か、自分にできることがあるはずだった。
「レジーナ様は、以前にも似たような話があったと仰っていましたね。あのときは、どのように対応なさったのですか」
「あのときは、ガレスの父が、まだ健在でした。父自らが王都に出向き、粘り強く交渉を重ねて、何とか話を収めたと聞いています。ですが、今のガレスには、そうした後ろ盾となる存在がいません」
その言葉に、エレノアは、改めて、ガレスが一人で背負ってきたものの重さを実感した。だからこそ、自分にできることを、精一杯やらなければならないという思いが、より強くなった。
「レジーナ様。一つ、伺いたいのですが」
「何でしょう」
「ヴォルグレイブ領は、公爵家の後ろ盾がなければ、本当に立ち行かないのでしょうか。これまでの帳簿を見る限り、決して、貧しい領地ではないはずです」
その問いに、レジーナは、少し考え込んでから答えた。
「予算の話は、あくまで国境防備、つまり軍事的な支援の話です。領地そのものの経済力とは、また別の話でしょう」
「でしたら、逆に、領地の経済的な自立を、明確な数字で示すことができれば、公爵家の後ろ盾がなくとも、十分にやっていけることを、証明できるのではないでしょうか」
その提案に、レジーナは、目を見開いた。
「……面白い考えですね。具体的には、どうするおつもりですか」
「これまでの収支、商会との取引実績、そして、今後の見通し。それらを、きちんとした資料にまとめ、王家に対して、ヴォルグレイブ領が自立した領地であることを、示すのです。防備の強化についても、公爵家の後ろ盾に頼らず、独自の対策を提示できれば」
エレノアの言葉に、レジーナは、感心したように頷いた。
「あなたらしい発想ですね。感情論ではなく、事実で対抗しようというわけですか」
「感情論では、王家も動かせません。ですが、確かな数字と実績であれば、話は別だと思います」
その夜、エレノアは、これまでの帳簿を一通り洗い直し、資料作りに取りかかった。トビアスも、その作業を手伝うと申し出た。
「僕にできることがあれば、何でも言ってください」
「ありがとう、トビアス。まずは、この三年分の収支を、分かりやすい形でまとめ直したいの」
二人は、夜遅くまで、資料作りに没頭した。数字を並べ、グラフを描き、これまでの成果を、誰の目にも明らかな形にしていく。
「これを見てください」
トビアスが、羊毛産業の収益推移をまとめた表を差し出した。
「ここ三年で、収益が着実に伸びています。特に、ダグラス商会との契約継続が決まってからは、安定した取引が見込めるようになりました」
「良いところに気づいたわね。この安定性こそ、公爵家の後ろ盾がなくとも、自立してやっていける証拠になるはずよ」
エレノアは、その表に、防備強化にかかる費用の見積もりも、あわせて書き加えた。村々の見回り体制の強化、物見櫓の増設。派手さはないが、着実に実行可能な対策の数々を、具体的な数字とともに示していく。
その作業は、単なる事務仕事ではなく、この土地への、そしてガレスへの、確かな信頼の表明でもあった。
翌朝、エレノアは、父にも手紙を書いた。政治的な駆け引きに詳しい父の助言を、仰ぎたかった。
『ガレス様が、王家より、政略的な縁組みを打診されています。私は、領地の経済的自立を示す資料を作成し、対抗しようと考えています。お父様のご意見を、伺えないでしょうか』
書きながら、エレノアは、これまでの父との関わりを思い返していた。式典の準備、住まいの選択、そして婚約解消の決断。その一つ一つの場面で、父は、いつも静かに、しかし的確な言葉で、背中を押してくれた。今回もまた、その知恵を借りたいと思った。
さらに、エレノアは、レジーナにも相談を持ちかけた。
「王家との交渉に、他に手を貸してくださりそうな方は、いらっしゃらないでしょうか。ガレス様お一人で、公爵家を相手にするのは、あまりに分が悪い気がします」
レジーナは、しばらく考え込んでから、静かに答えた。
「そういえば、東の国境を接する、別の辺境伯家とは、以前から友好的な関係にあります。同じ立場の家同士、この件について、意見を交わすことはできるかもしれません」
「その方に、事情を説明してみることは、できますか」
「手紙を書いてみましょう。ただ、あまり大きな動きにすると、かえって公爵家の反発を招く恐れもあります。慎重に進める必要がありますね」
その言葉に、エレノアは深く頷いた。感情に任せて突っ走るのではなく、一つ一つ、慎重に手を打っていく。それこそが、これまでの経験から学んだ、確かなやり方だった。
書き終えた手紙を送り出しながら、エレノアは、これまで培ってきたすべての力を、今こそ発揮すべき時だと、静かに決意していた。
自室に戻り、エレノアは手帳を開いた。
『ガレス様、公爵家との縁談を明確に拒絶。予算配分をちらつかせる圧力を受けている。私は、領地の経済的自立を示す資料作りに着手した』
書き終えて、エレノアは、これまでの手帳の記録を、改めて見返した。誰かの都合に振り回されるだけの日々から、自分の意志で状況を切り開こうとする今の自分へ。その変化が、こうした危機の場面でこそ、はっきりと形になって表れていた。
セドリックとの日々であれば、こうした事態が起きても、ただ心配し、待つことしかできなかっただろう。だが今は、違う。自分の持つ知識と経験を武器に、大切な人を守るために、動くことができる。
トビアスが、資料の続きを抱えて、部屋を覗きにきた。
「エレノアさん、明日も、朝から作業を続けましょう」
「ええ、お願い。……ありがとう、トビアス。あなたがいてくれて、本当に助かっているわ」
その言葉に、トビアスは、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに頷いた。
窓の外では、朝日が、雪解けの進んだ大地を、明るく照らし始めていた。待つだけの時間は終わった。今、自分にできることを、一つずつ、積み重ねていく。それが、エレノアの選んだ、新しい戦い方だった。




