ハミルトン公爵家
出発の朝、エレノアは屋敷の玄関先で、ガレスを見送った。
「行ってらっしゃいませ。……どうか、ご無事で」
「必ず、良い報告を持って帰ります」
ガレスはそう言って、力強く頷いた。だが、その表情の奥に、隠しきれない緊張があることを、エレノアは見逃さなかった。
馬車が見えなくなるまで見送ったあと、エレノアは、いつも以上に仕事に打ち込んだ。手を動かしていなければ、不安に押しつぶされてしまいそうだった。
「エレノアさん、少し根を詰めすぎでは」
トビアスが心配そうに声をかけてきたが、エレノアは小さく首を振った。
「大丈夫よ。ただ、こうしていないと、落ち着かなくて」
レジーナも、その様子を見かねてか、いつもより頻繁に、茶を運んできてくれた。
「案じすぎても、答えは変わりません。ですが、案じる気持ちそのものは、止めようがないものですよね」
その言葉に、エレノアは静かに頷いた。屋敷の皆が、それぞれの形で、この不安な時間を、共に過ごそうとしてくれていた。
夜になると、エレノアは、これまでガレスから届いた手紙を、一通ずつ読み返した。初めて交わした実務的な文面から、次第に温かみを帯びていった言葉の変化を、改めてたどり直す。その一つ一つが、今の自分たちの関係の、確かな土台になっている。この土台が、そう簡単に崩れるはずはない――そう自分に言い聞かせながらも、拭いきれない不安が、胸の奥に残り続けていた。
王都に着いたガレスは、その日のうちに、王家の意向を統括する部署へと出向いた。応対したのは、初老の文官と、その背後に控える、若い貴族の男だった。
「ヴォルグレイブ卿、遠路お疲れ様でした」
文官は、丁寧な口調でそう言ったが、その目には、値踏みするような冷ややかさがあった。
「早速ですが、本題に入らせていただきます。卿の婚姻について、ある方から、正式な打診がございました」
そう言うと、文官は、隣に控える若い貴族の男を、手で示した。
「こちらは、ハミルトン公爵家のご子息、レジナルド様です。公爵家より、ご息女ソフィア様との縁組みについて、前向きにご検討いただきたいとのことです」
その名を聞いて、ガレスは、内心の動揺を、表には出さないよう努めた。ハミルトン公爵家といえば、王家に次ぐ権勢を誇る、国内屈指の名門だった。断ることの重みが、これまでの縁談とは、比べ物にならないことは、すぐに理解できた。
レジナルドという青年は、洗練された物腰と、自信に満ちた表情をしていた。妹を推薦する立場としては、当然のことながら、この縁組みに、迷いは一切ないようだった。
「ハミルトン公爵家ほどのお家柄が、なぜ、辺境の一領主に、目を向けられるのでしょうか」
ガレスの問いに、レジナルドが、代わって口を開いた。
「近年、東の国境で、不穏な動きが見られます。ヴォルグレイブ領は、その要衝に位置している。公爵家の後ろ盾があれば、防備の強化にも、大きく役立つでしょう。妹も、卿の評判をかねてより耳にしており、良い縁になるはずだと」
その説明には、一見、理にかなった論理があった。だが、ガレスの胸には、静かな抵抗が、確かに芽生えていた。
「ソフィア嬢とは、以前、一度だけ夜会でお会いしたことがあります。聡明で、教養のある方だという印象を受けました」
ガレスの言葉に、レジナルドは満足げに頷いた。
「妹も、卿のことを、好意的に語っておりました。決して、悪い話ではないはずです」
「ソフィア嬢ご自身は、この縁組みを、どのようにお考えなのでしょうか」
ガレスの問いに、レジナルドは、一瞬、言葉に詰まった。
「妹は……家のためになることであれば、否やはないと申しております」
その答えに、ガレスは、小さな違和感を覚えた。ソフィア自身の意志というより、家の意向として、話が進められているように聞こえた。もしかしたら、彼女もまた、自分の意志とは無関係なところで、この縁談に巻き込まれているだけなのかもしれない。
「お話は、よく分かりました。……ですが」
ガレスは、一度、深く息を吸った。
「大変ありがたいお話ですが……実は、私には、すでに想いを寄せている方がおります」
その一言に、文官と、レジナルドの表情が、揃って曇った。
「ほう。……どちらのお家の方でしょうか」
「フォスター伯爵家の、エレノア嬢です」
「フォスター伯爵家……。失礼ながら、聞き覚えのないお家です。それに、確か、以前、別の方との婚約を解消されたとか」
その指摘に、ガレスの中で、静かな怒りが湧いた。だが、それを表に出すことは、事態を悪くするだけだと分かっていた。
レジナルドが、皮肉めいた笑みを浮かべて口を挟んだ。
「婚約を解消された方を、辺境伯家の当主が正室に迎える、というのは、外聞上、いかがなものでしょうか。ソフィアであれば、そうした懸念は、一切ございません」
その物言いに、ガレスの声は、これまでより一段、低くなった。
「エレノア嬢は、婚約解消の後、ご自身の意志で、我が領地の運営を支えてくださっています。その人柄も、能力も、私が誰よりも保証いたします」
「気持ちは分かりますが……。ヴォルグレイブ卿、これは、あなた個人の恋愛の話ではありません。国境の安定という、より大きな責務に関わる話です」
文官の言葉には、有無を言わさぬ重みがあった。ガレスは、しばらく沈黙した後、静かに、しかしはっきりと答えた。
「私は、辺境伯としての責務を、疎かにするつもりはありません。ですが、婚姻の相手を、政治的な都合だけで決めることは、できかねます。少し、お時間をいただけますでしょうか」
その返答に、文官とレジナルドは、顔を見合わせた。
「卿のお気持ちは、分かりました。ですが」
文官が、静かに、しかし重々しく続けた。
「一つ、申し添えておきましょう。国境防備のための予算配分は、毎年、王家の裁量で決められます。……有力な後ろ盾を持つ家と、そうでない家とでは、その配分に、自ずと差が出ることも、ございます」
その言葉は、脅しではないと装いながら、明確な圧力を含んでいた。ガレスは、拳を握りしめながら、静かに答えた。
「脅しと受け取ってよろしいのでしょうか」
「とんでもない。ただの、現実のお話です」
レジナルドが、涼しい顔でそう付け加えた。
「……分かりました。ですが、あまり長くお待たせすることは、こちらとしても、できかねます。一月以内に、正式なお返事をいただきたい」
その期限を告げられ、ガレスは、重い足取りで、王家の建物を後にした。
宿に戻ったガレスは、その晩、エレノアへ宛てて、長い手紙をしたためた。今日の出来事を、包み隠さず、詳細に綴った手紙だった。
『ハミルトン公爵家という、国内屈指の名門から、ご息女との縁組みを打診されました。断れば、国境防備の予算配分に影響が出るとも、暗に示されました。正直、これほど大きな圧力を受けるとは、想像していませんでした』
書きながら、ガレスは、幾度もペンを止めた。この事実を伝えることで、エレノアを、不必要に不安にさせてしまうのではないか。だが、曖昧にすることは、二人で交わした約束に反する。迷いながらも、ガレスは、正直な言葉を紡ぎ続けた。
『あなたへの想いは、何があっても変わりません。ですが、事態は、私が思っていたよりも、深刻なようです。一月以内に、答えを出さねばなりません』
『どうか、信じてください。私は、必ず、あなたを選びます。ただ、そのために、これから何をすべきか、まだ具体的な道筋が見えていません。少し、考える時間をください』
書き終えた手紙を、翌朝、急使に託しながら、ガレスは、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。これまでの人生で、これほど重い決断を迫られたことは、一度もなかった。だが、その決断の先に、譲れないものがあることだけは、確かだった。




